石造美術概略 2020.08月
石塔墓碑の類について私がその「教科書」としてしているのは川勝政太郎氏や清水俊明氏の書籍です。
ブログでは折に触れて「歴史的石造物」の美的な側面から独り善がりの紹介をさせていただいており、またある程度の件数が重なってきたためこの辺りでその「石」について一旦どういった形式があってその概略を記す必要があると思いこのページを設けました。
私の知り得るその手の書物の中で手っ取り早くまとめられた「奈良県史7 石造美術」清水俊明氏~が手元にありその冒頭に石仏とは一体どういうものか・・・と簡略明記されていますのでそちらから転記させていただくことにしました。
その冒頭で石材を利用して造られた飛鳥時代以降の歴史時代の石造遺品を指して「石造美術」と称するとあるものの、そのすべてにおいてその名称を使うことは難しいとあります。
「美術的」の感覚からは離れるものもありまた時代を経て大量生産されるようになってから石造物製作の技術・力量の退化があるからです。
大雑把に歴史的石造物のくくりにはどういった分け方、見方があるか、石造美術の世界を歩くための視点を「奈良県史7 石造美術」冒頭から見に行きたいと思います。
尚、分類が「二十五項目」ありますが本編の通り十七項目の記述となります。
石造美術の分類 「奈良県史7 石造美術」
石造美術の研究をしていくには、分類が必要であり、構造形式による分類が先学によっていろいろ試みられてきた。
故・川勝政太郎氏はその著「石造美術」のなかで、それを二十五項目に分類されている。その分類は次の項目である。
1層塔 2宝塔 3多宝塔 4五輪塔 5宝篋印塔 6一重塔
7笠塔婆 8自然石塔婆 9角塔婆 10板碑 11無縫塔 12石幢
13石仏 14石室 15石橋 16石灯籠 17炉 18水船 19石鳥居 20狛犬 21石碑 22石臼 23露盤 24台座 25石壇
分類上の名称においては、構造上、いろいろ構造の異なるものもある。たとえば石仏においても、笠石を使用したものを笠塔婆に加えることなど不合理なことといわねばならぬ点もあり、分類のほかに項目を加えていくほうが便利である。
1 層塔
石の層塔は本来木造建築の層塔と同じ意味を持っていると考えて良い。その語源はスツーパ(stupa)であり、それが中国に伝えられ卒塔婆となり、略して塔婆となり、また塔と呼ばれたものである。
仏塔は釈迦如来の遺骨、すなわち舎利を納めるために造られた塔であり、インドでは石造、または塼(せん―煉瓦)造りであったものが西域を経て中国に伝わり、その国の民族性、資材、信仰などから構造様式の変遷や造形があり、日本の木造建築構造の層塔は中国の塔の様式を受け入れたものである。
石造の層塔も奈良時代から遺品があり、その後近世に至るまでの層塔が多く残っている。
層塔は三重以上の層が多いものを指していう。
一般には平面が方形で、六角十三重塔(奈良市長谷塔の森)も奈良時代に造られている。
基礎の上に塔身(初軸)を置き、塔身の上に屋根石を積み重ねるが
その層数は三重、五重、七重、九重、十三重ですべて奇数からなり、偶数のものや奇数でも十一重のものがあれば、寄せ集めか欠失する部分がある塔である。
最上層の上に露盤が造られ、その上に相輪がのる。
相輪は伏鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・請花・宝珠の五部からなり、なかには九輪の上に水煙を四方に造り出したものもある。
基礎の側面は素面が普通であるが、一面または四面に輪郭を巻いて格狭間(こうさま)を入れるものもあり、側面に銘文を刻むことがよくある。
塔身(初軸)は層塔の中心であり、四面に像または種子(しゅじ)で四方仏をあらわすものが多く、古い時代のものには顕教系
(東・薬師バイ、 南・釈迦バク、 西・阿弥陀キリーク 北・弥勒ユ)を配置する。
のち密教が広がると東・阿閦ウーン、南・宝生タラーク、西・阿弥陀キリーク、北不空成就アクといった金剛界種子四方仏が多くなり、胎蔵界の宝幢ア・開敷華王アー・無量寿アン・天鼓雷音アクの配列も数少ないがある。
密教系像容四方仏もあり、特殊な種子・像容の混用するものも時には存在する。
密教系層塔の場合は塔そのものの根本となる主尊は大日如来であることはいうまでもない。
2 宝塔
「法華経見宝塔品」に、釈迦が末世において法華経の教えを説く者の心構えと、その教えを受ける者の功徳について説いた時、目の前の地上から光明燦然とした七宝造りの宝塔が忽然と湧出し、天空高くそびえ立ったといい、塔中にいた多宝仏が釈迦の説法をほめたたえ、塔中の玉座に釈迦を招き入れて半座を分かち、釈迦・多宝の二仏が宝塔中に並座したと説かれている。
釈迦の説いた法華経の教えが真実かつ真理を説いたものであることを多宝如来が証明したことであり、宝塔は真理の全相を形であらわしているのだという。
もともと、宝塔という言葉は塔の美称であって、三重塔なども宝塔と呼んでいたようで、奈良県桜井市長谷寺所蔵の銅版法華説相図(奈良時代前期)にも、中央に三重塔が浮き彫りされ、塔中に釈迦・多宝如来が並座している。
この塔形は、ここでいう宝塔の形式とは異なるものである。
宝塔は平安時代になって、密教寺院の建築物として造立されるようになった。
石造宝塔も法華経を説く天台系寺院で造立されたようで、平安時代からその遺品がある。
宝塔は基礎・塔身・首部・笠・相輪からなり、層塔と異なるところは
塔身の平面が円形で造られており、塔身の上部に首部があるところである。塔身の側面は素面である場合と、扉型や鳥居型をあらわし、時には扉を開いて多宝・釈迦の像容、または種子があらわしているものがある。そのほか四方仏を梵字で配置した例も見られる。
3 多宝塔
多宝塔と宝塔の異なるところは、塔身の平面が方形であり、外観は二重塔で、下屋根の上に饅頭型が造られその上に平面円形の勾欄、首部があり、上層屋根・相輪を備えたものである。
宝塔とは外観こそ異なるが信仰の内容は同じである。
やはり平安時代から造立されている。
近江地方に作例が多いが、奈良県下には数少なく、平安時代後期のものでは大和高田市根成柿天満宮の多宝塔がある。
4 五輪塔
五輪塔の造立は全国的に最も盛んでその名称はたいていの人に馴染まれている。どこの寺院や墓地にも見られる塔形である。
層塔は中国・朝鮮に古くからあるが、五輪塔はわが国にしか見られず、わが国で造形され流行していったようである。
しかし、その初期形成は宝塔形式との密接な関係があるようで宝塔より五輪塔形式が生じたとの説もある。
五輪塔は密教の宇宙根本の思想である、空風火水地の五大五輪を象徴的にあらわした空(宝珠型)・風(半円型)・火(三角形)・水(円形)・地(方形)を積み重ねて塔としたものである。
こうした五輪塔形は五輪塔そのものは存在しないが、中国唐時代の大日経などに示された五輪図形が祖型であるという説もあり、大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう)として信仰され、真言念仏者にとっては、それ自体が供養の塔であった。
弘法大師の七七日の供養に、その墓上に建てた五輪卒塔婆が、五輪塔の始まりともいわれる。
大和の古い惣墓地にはよく古く大きな五輪塔が中央の高い所に一基建っていることがある。これは忌明塔とも称し、死者の遺族は死者をその墓地に埋めた後、七七日の忌までこの塔に詣り、死者の荒魂(あらみたま)の霊を鎮めるため供養し、忌の明けた四十九日(七七日)になると、この塔に死者の霊と別れを告げ、それ以後は和魂(にぎみたま)となった死者の霊を別の墓塔に移してその墓塔を供養したものである。
北葛城郡當麻北墓の五輪塔は大和最古の五輪塔で、藤原時代の造立と考えられ、宝塔様式が残っている。
西大寺奥院の興正菩薩五輪塔は鎌倉時代の代表的な塔で、この時期の五輪塔は五輪形をよく厳守して造形されており、造形的にも完成された美を備えている。
古い時代の地輪は背が低く安定感があり、水輪は円形に近く、火輪は三角を石造で形成するには困難であり、三角形の火輪もまれには存在するが、造形的には笠石のように軒を作り、建築風の宝形造りになっている。
空・風輪は普通宝珠形にしたものが多い。地輪(基礎)・水輪(塔身)・
火輪(笠)・空風輪(宝珠)で造形された塔というわけである。
五輪塔を大日如来の三昧耶形とする教理からその四方各輪に四門の梵字、発心門・菩提門・涅槃門を配して刻むことが多い。
また、そのうち一門、発心門のみを刻んだものや「空・風・火・水・地」の文字を刻んだものもある。そのほか、水輪四方に四方仏の種子を配した塔、地輪に阿弥陀像をあらわした塔も数少ないが存在する。
一石五輪塔
室町時代以降、五輪塔は一般的に小型化する傾向があり、造形美的にも退化していくがこうした時代にあって一般庶民の間で著しく造立された小型一石五輪塔がある。
奈良県下では高野山の仏教文化の影響を受けた五條市吉野川流域に多く見られ、この地方特産の緑泥片岩(吉野石)を使用して、高さ50㎝、幅15㎝ほどの小型一石五輪塔を造り、その地輪部に年号・法名などを刻んでいる。
室町時代中期、文安・長禄・応仁・文明・大永・天文といった年号も多く、二千数百基がこの地方で確認されている。こうた大量の一石五輪塔の造立で、中世の一般庶民に仏教が浸透していったことを知るのであるが、特にこの地方と紀ノ川流域にかけ「大念仏衆」といった念仏信仰の刻銘が石塔によく刻まれているところから、高野念仏信仰が一般庶民に広く普及していたことを物語るものである。
一石五輪塔はこうした念仏信仰を中心に詣り墓の墓塔として広く需要に応じて大量に製作されたものであろう。一石五輪塔の形式も卒塔婆のように少し地輪を長くしており、高野山町石卒塔婆の形式を移したものと考える。その長い地輪部と水輪部にかけて舟形を彫りくぼめ阿弥陀や地蔵像をあらわしている塔もある。美術的には退化の著しい時期のものであるが、庶民信仰の資料として注目すべきものである。
五輪卒塔婆
一石で五輪塔を造り、その地輪部長くしたものを五輪卒塔婆と呼ぶ。五輪塔は各輪部を別石で造るのが本格式であるがそうした五輪塔とは離れた趣意の形式をもつ塔が鎌倉時代以降になって造立されるようになった。それが五輪卒塔婆である。
五輪卒塔婆の長い地輪部(基礎)を地中に埋め立て、その地輪部に願文・法名・紀年号などを刻むもので、木造卒塔婆の内容と同じである。高野山の町石は五輪卒塔婆の形式で造られていることで有名であり、鎌倉中期文永二年(1265)の発願で弘安八年(1285)に高野口の慈尊院から伽藍まで、また奥院に至るまで延々二百十六町にわたり、一町ごと造立完成したものである。
このように町石として使われるのはその長い方柱状の形式が町石・道標に適したところからであり、単なる道標でなく、卒塔婆として信仰心から造立される意味も大きいからであろう。
五輪卒塔婆は鎌倉時代以降、室町時代の造立になるものも各地にあって、その形式も高野山町石のような平面が方形的なものではなく、板状式五輪卒塔婆のものも造られ、各輪部に梵字を刻んであるものや六字名号をあらわしたもの、阿弥陀・地蔵を彫った形のものがあらわれる。
5 宝篋印塔
石造の宝篋印塔という塔形はインド・中国に存在せず、韓国に高麗初期のものがあり、わが国で多く見られる石塔である。
宝篋印塔は本来、宝篋印心呪経を納めたことからその名称が付けられたもので、中国の呉越の王、銭弘俶が顕徳三年(956)にインド
阿育(アショーカ)王の八万四千造塔の故事に倣い、宝篋印塔を八万四千基鋳造して供養回向したのが日本に伝わり、それが祖形となって石造化されて流行したものだといわれている。
八万四千という数字は実数とは思われないが事実、戦後中国の各地から銭弘俶の造立した銅塔(金泥塔と呼ばれる)が出土した。
昭和三十二年、浙江省金華密印寺の地下室から多くの文物とともに十五基の金塗塔が発見され、その塔の底に「呉越王弘俶造宝塔八万四千所永充供養時乙丑歳記」の刻銘があり、ここでは宝塔とあって宝篋印塔とはいっておらず、中国には宝篋印塔の名称はなかったと考えられる。
木造塔の一種で「籾塔」(もみとう)という小塔が宇陀郡室生寺弥勒堂須弥壇下から多量に発見されたことがある(昭和二十八年)。
この塔の底に穴をうがち、そこに宝篋印塔陀羅尼を刷った紙に包んだ籾一粒ずつが納めてあったところから籾塔と呼ばれており鎌倉時代のものと考えられている。
この籾塔は中国の金泥塔より簡略化され石造宝篋印塔の形式手法により近いものとなっており鎌倉時代中期ごろから石造宝篋印塔がわが国で流行していったと考えられる。
宝篋印塔は基礎・塔身・笠・相輪からなり、相輪を除いてその平面が方形で造られている一重の塔である。
基礎側面は素面のものが大和方面に多く、枠取りをして格狭間を設け、蓮華文様などの装飾を施したものも近江をはじめ地方に見られる。
基礎の上に段形または反花座を設け、これに対応させて笠下に二段または請花(蓮弁)を作って塔身を据える装飾とする。塔身には金剛界四方仏の種子を刻んだものが多い。
像容では顕教系四仏を彫り出したものもあり、四方無地のものも数少ないが存在する。
笠下には数段の段形を作り、笠の四隅に突起状の隅飾りを設けるのもこの塔の特色である。
その隅飾りの面に小梵字を刻むこともある。
6 一重塔
基礎・塔身・笠・宝珠の構造で造られるもの、如法経塔という名称で造られる石塔によくこの形式のものがある。
如法経塔の場合、その平面が方形であることが普通となっている。県下には古い遺品は現在のところ見つかっていないが、奈良市田原日笠町付近には江戸時代の如法経塔の一重塔がある。
塔身の一面に「如法経」と刻んでいる場合が多い。
7 笠塔婆
方柱状の塔身または板状の塔身、あるいは自然石に仏・菩薩または種子をあらわし、そのうえに別石の笠石を置くものを笠塔婆と分類する。
塔身は根部を作って地面に埋め立てるものもあり、基礎を作って立てる場合もある。
笠石も塔身の形に応じて宝形造り、方形、または自然石の場合もある。塔身の面積が広いので、刻銘を刻むことに適している。
笠塔婆の遺品としては有名な奈良市般若寺の笠塔婆二基は、鎌倉期弘長二年(1262)に宋人石大工伊行末の嫡男伊行吉が亡父の一周忌の菩提供養のため、ならびに現在の母のために建立したことを塔身部に刻んでおり、種子・偈文・真言・小呪など、長い柱状塔身部の面積を十分に活用している。
塔身上に宝形造りの笠石を載せ伏鉢・請花を備た宝珠を載せて
造形的にも実に優れた笠塔婆である。
桜井市多武峯の談山神社参道に立つ乾元二年(1303)造立の摩尼輪塔は塔身部が八角形の柱状であり、その正面上方に大きい宝珠形月輪を作り出し、胎蔵界大日の種子「アーク」を刻み、四柱形の笠石を載せたもので、八面造りから石幢に分類すべきとの説もあるが、正面に種子・銘を刻んで他の面を使っておらず、方形の笠石を使用するなどの様式から笠塔婆に分類されている。
奈良市南風呂町阿弥陀寺笠塔婆は、細長い塔身正面上方に「ア」の梵字を刻み、その下船形内に弥陀立像を彫り出したもので、下面に室町初期応永十二(1405)の造立年と「尼妙円」の法名を刻む。こうした整形された笠塔婆は室町時代以降に流行する。
8 自然石塔婆
自然石状の塔身を持つもので、その四方に仏・菩薩・年紀・銘文などを刻む場合もあり、一面のみを使用することもある。
板碑に近い形式であるが自然石塔婆として区別されている。
9 角塔婆
塔身が方柱状に造られ、その頭部を四方とも傾斜を作って山形に作り、その下に二段の切り込みを持つもので、一見板碑を角状に造ったものと考えてよいものである。
県下では宇陀室生寺の「大界外相石」があり、ほぼ角柱の塔身部を造り、正面に「バン」大日如来の種子と「大界外相」の文字を刻み、頂部四方山形に作って、その下に二段の切り込みがある。
鎌倉後期の角塔婆の一例である。
10 板碑
板碑は平安時代に使われた木造の卒塔婆がのちの鎌倉時代になって石造化して造られたと思われるが、諸説あって定説がない。主に関東の武蔵地方で板状緑泥片岩(秩父青石)を使用し造立されたもので、頂上を山形に作り、その下に二段の切り込みをし、その下に額を設けその下の長い身部に仏・菩薩などの像や種子・年号・法名・願文・偈文を刻んでその下の根部を地面に埋めて立てたものを、一般に板碑を称したのである。
大和地方ではこうした板状石材の産出がないので、もっぱら花崗岩を使い、厚い板碑や自然石を使ったもの、船形状に造ったものも板碑の範囲に入れて分類する。
県下最古の板碑は天理市布留町大念寺文永五年(1268)の半自然石板碑で、花崗岩を不整形に板状に造り、蓮華座を設けた上に月輪内弥陀の種子をあらわしており、阿弥陀信仰の内容を示すものである。
室町時代には庶民造立の板碑が急増し「南無阿弥陀仏」の名号をあらわした周囲に法名や「念仏講衆人数各敬白」と刻んだものや自己の逆修供養のため造立した板碑が多くなる。
十三仏や仏・菩薩像ををあらわす板碑の造立も、室町時代以降に盛行し、その遺品は大和では膨大なものとなる。
11 無縫塔
無縫塔は塔身が卵形のもので、卵塔とも呼ばれている。
卵形は縫い目がないという意味から無縫塔というのであって、中国禅僧の墓塔として造立され鎌倉時代に宋の禅宗文化とともにわが国に入ってきたものである。
京都や鎌倉方面に古い遺品が見られるのも当初にそうした禅宗寺院に造立されたのを物語っている。
室町時代以降は他の他の宗派寺院において(当流以外だが真宗にも稀に見られる)も用いられるようになり、僧侶の墓塔として流行するようになる。
無縫塔の形態には二種目があり、重制と単制の二形態に分かれている。
重制は基礎・竿・中台・請花・塔身からなり、単制は基礎・請花・塔身の構成になっている。
前者は塔身の高さが低く、後者は高いのが特色で基礎・竿・中台は八角または六角造りとなるのを普通とする。
古い禅宗寺院の少ない県下には無縫塔の古い遺品はほとんどないといってよいほどで、室町末期から桃山時代のものが古い遺品である。
12 石幢 せきどう
石幢は多角柱状の幢身を造るところに特色がある。
中国の唐時代に盛んに造られてわが国では岡山県保月六角石幢が最古の遺品であり、鎌倉時代嘉元四年(1306)に伊派石大工井野行恒の作として有名である。
六面幢身に仏・菩薩・明王像をあらわし、その下方に銘文・偈文を多く刻んでいる。
桜井市経ケ塚山の石幢は八角柱状の幢身の八面上部に如来・菩薩の種子を刻んだものであり、現在後補の四柱形笠石を載せている。談山神社参道の摩尼輪塔の形式とよく似ているが、経ケ塚山の石幢は八角の八面すべてを使用するところに、笠塔婆と石幢との分類の違いがある。
五條市畑田西福寺の石幢は前記二基のような単制式石幢とは異なり、基礎・幢身・中台・龕部・笠・宝珠よりなる重制式石幢であり、外部は石灯籠と同じで、火袋の部分が龕部と称して火口がないだけである。
その龕部の六面に六地蔵を配しており、笠の各隅に蕨手を設けないところも灯籠と異なる。
西福寺六面石幢は室町中期大永八年(1528)に一結衆三十六人の造立したもので、こうした六地蔵を彫った石幢は、地蔵信仰の普及した室町時代以後各地で造立されることが多くなる。
13 石仏
石仏には種々の形態があり、形態別に条目を設ける必要がある。
そこで、その構造形式に基づいて六条目に分ける。
1 摩崖仏
2 一石仏(単独仏)
3 石龕仏
4 石窟仏
5 笠石仏
6 石棺仏
また、手法による分類を七種類とする。
1 丸彫り
2 厚肉彫り
3 半肉彫り
4 薄肉彫り
5 彫り込み半肉彫り
6 線彫り
7 浮き出し線彫り
素材として用いられる石材は凝灰岩・安山岩・砂岩・花崗岩・緑泥片岩といったものが多く、主にその地方で産する石材を使用することが多い。
摩崖仏は露出した岩層面に彫刻したもので、場所的にも山岳地帯や都会から離れた僻地に多いのは当然の事である。摩崖仏は造形的条件から立体的なものを造ることは難しいが、周囲の自然ととけ合って独特の魅力をもつものである。
大和地方では奈良時代前期から摩崖仏の造立が始められていたもので奈良市大和田町矢田丘陵の滝寺跡摩崖仏などがその遺品である。
一石仏(単独仏)は摩崖仏とは違い、その用材を工房に運び入れて工作できる便利さがある。移動可能な範囲の石材を用いて造った石仏を指していう。工作が自由である利点から木彫仏に劣らぬ立体的な造形も可能であり木彫仏と同様に堂内に安置される例もある。
しかし多くは外部にあって路傍の仏といった性格をもつものである。
桜井市忍阪石位寺三尊石仏などは一石三尊仏であり、一石で台座・光背・天蓋を造り、中尊の左右に脇侍を彫っている奈良時代前期の石仏である。
石龕仏は切り石または一石で「龕」(がん 仏殿)を造り、その中に石仏を安置したものである。
わが国最古の遺品は兵庫県古法華三尊仏で奈良時代前期のものであるが、奈良市十輪院の石龕仏は規模も大きく構造も優れたものである。
天理市七廻峠の建長五年(1253)地蔵石龕仏は花崗岩の切り石を使い側石を立て、大きな一板石を上に載せて屋根石とした簡単なものであるが、古い時代の石龕にはこうした素朴な構造のものが往々にあり、野趣があってそれが魅力的でもある。
南北朝時代ごろから奥行きの少ない箱形の中に石仏を彫った石龕仏が造られるようになる。
長方形、または方形の石材を使い表面に枠取りを残して内部を彫りくぼめ、その奥壁に仏像を半肉彫りするもので、上に宝形の屋根石を載せることが多い。これは石龕仏の退化したものであり、室町・江戸時代にこうした小石龕仏が多く造立されている。
石龕仏は岩層を深く彫りくぼめて窟状を造り、その壁面に仏像を彫り出すものである。
奈良市春日山石窟仏、春日奥山地獄谷石窟仏は平安時代後期の石窟仏として有名なものである。こうした石窟仏は大陸の石窟寺院の影響を受けて造立されたものと思われるが、わが国では規模の大きなものは造られておらず、あまり流行しなかったものである。
笠石仏は自然石、または方形状の石材に仏像を彫り、その上に笠石を載せたものである。笠塔婆・石龕仏と混同されやすいが、条目別にして分類すべきであろう。
たとえば、生駒郡三郷町一針薬師(鎌倉初期)などは、大きな自然石表面を平らにして磨き、薬師三尊十二神将を線彫りし上に自然石の笠石を載せている。
こうした横幅の広い石材を用いた笠石仏は一般的に背の高い笠塔婆とは根本的に造趣を異にするものであり、笠石仏とするのが適するであろう。
石棺仏は他の石仏と異なり、その素材に古墳時代の石棺材を転用して造るもので、県下をはじめ大阪府河内地方、兵庫県加西市、姫路市別所方面に多く見られ、荒廃した古墳石棺材を再利用したのである。石棺材に使用する石材は凝灰岩を使用することが多く、こうした石材は彫刻が容易であり、石仏を彫るのに適している。
また古墳石材そのものに霊魂が宿るといった考えもあったと思われ、霊石を用いた石仏としても意味があったのであろう。
14 石灯籠
灯籠は仏像に献ずる灯明の仏具であり、わが国には仏教とともに伝えられ、仏殿の正面に一基建てて献じたものである。のち神前にも献ずるようになり、左右一対二基を建てるようになったのは室町以降のことである。
また桃山時代以降、茶の流行に伴い庭内に石灯籠を置くことがあり、江戸時代には常夜灯として道端に建てられることも多くなり、その用途も広くなった。
石灯籠は基礎・竿・中台・火袋・笠・宝珠からなり、火袋の形から八角型・六角型・四角型灯籠と称している。笠が六角または八角のものには軒隅に蕨手を作り出すものが多い。
北葛城郡当麻寺金堂前の八角型灯籠は軟質の凝灰岩を使用しているので摩滅風化も激しいが、胴張りのある竿、中台の蓮弁の雄大な形式は、奈良時代前期の古瓦の蓮弁様式に通じ、奈良時代前期、最古の石灯籠として注目される。
八角型で平安時代のものは奈良市春日大社の柚の木灯籠と呼ばれているものがただ一基の例であったが、これも近年樹木が倒れたおりに倒壊した。しかし現在その復元石灯籠(川勝政太郎博士設計)がもとの場所(若宮社脇)に建ち、破損した灯籠が宝物館に保管されている。
鎌倉時代になると六角型が主流となり遺品も多くなる。
奈良市東大寺三月堂前の建長六年(1254)灯籠はその代表的なもので、名工伊行末の造立銘がある。
基礎は自然石の上に八葉蓮弁を彫り出す。円柱の竿は節で強く締めた形でその上下銅部分が膨れて弾力性を感じさせ、中台側面や火袋下区に格狭間を入れ、上区に横連子を入れるなど重厚な趣を見せる灯籠で以後三月堂型と称して手本となり、この形の灯籠が多く作られた。
一般に鎌倉時代に造られた大和の六角型灯籠は装飾性が豊かで中台側面に走り獅子をしばしば用い、火袋に仏像・天部などを配して優秀かつ荘重感のある灯籠がきわめて多い。鎌倉時代は最も石灯籠の造形が整備完成した時代である。
四角型石灯籠は鎌倉末期頃から遺品があり橿原市一町浄国寺の正和五年(1316)銘は古い遺品である。
奈良春日大社のの御間道にあった元享三年(1323)四角型灯籠(現在宝物館蔵)は細部に優れており、基礎側面に孔雀・鹿・蒼龍の文様を刻み出し、中台側面にも走り獅子を彫って優秀な作風を示す。四角型は簡素な形式から神社石灯籠にふさわしいところから春日大社をはじめとし神社に多く用いられるようになる。
石灯籠も室町以後になると装飾性にのみ走り、技法にも衰えを見せ荘重感のない灯籠が多くなる。
15 水船
水船は水を入れるための水槽であるので、一石で水をためるための水穴を造る。
その形式は長方形であることが多く船形に造ったものもある。特殊な例では大和郡山し洞泉寺水船形式のように一方に石仏を載せたと思われる台を設けたものもある。
年代の確かな古い作例として、春日山高山水船があり、船状に造って両端に取っ手状の突き出しがあり、「東金堂施入高山水船也 正和四年乙卯五月日置之 石工等三座」とあり、鎌倉時代正
和四年(1315)の造立で「水船」と称していたことがわかる。
桜井市大神(おおみわ)神社の水船は長方形の大型水船で「大神社水船也」とあり、室町初期応永二十一年(1414)の造立である。寺院だけでなく神社の手水鉢として使用されることが多い。
16 石鳥居
鳥居は本来神社境外から境内に入る浄域の出入り口に建てた門であるが神社だけでなく大阪四天王寺西門の石鳥居や墓地入り口に立っていることがあり、大和の古い墓地にはよく見かけることがある。
鳥居は左右二本の円柱を建て、その上に笠木・島木を重ねて載せさらに柱の上方に貫を架け渡し、貫と島木間の中央に額束を立てた構造からなっている。しかし近世の鳥居には種々の構造のものが造られている。
石鳥居の古遺品としては平安時代後期と推定されているものが山県市荒谷石鳥居、同市小立明神鳥居にあり、大阪四天王寺西門石鳥居は永仁二年(1294)に、もと木造鳥居であったのを西大寺忍性が石造に改めたと伝える。
大和地方には古遺品が見られず、神社・墓地に建つ鳥居はほとんど江戸時代のものである。
古調を伝えるものは柱が太く柱間の広さに対し、背が低いのが特徴で室町時代のものは笠木の反り、柱の太さに古調があり江戸時代の物は柱の上方が内に狭まり、笠木・島木の反りは両端で強く反り上げ、先端を斜めに切ってとがらせる特徴がある。
17 狛犬
狛犬と呼ばれ神社の社殿の前に置かれて親しまれているが狛犬は獅子のことであり、その起源はインドで仏殿や仏像の前方に置き守護的な目的をもったものとして使われていたもので紀元前三世紀、阿育王の建てた石柱(仏教宣布の詔勅文を刻んだ柱)の柱頭蓮華上に獅子が彫られており、マトゥラーの二世紀仏陀座像の台座にも獅子が配置されている。
百獣の王として威厳を備えた獅子の姿は権力の象徴であり宮殿・陵墓・仏殿に早くから飾られていたのである。
獅子はやがて中国に伝えられて唐獅子と呼ばれ、朝鮮半島では高麗犬・狛犬と呼ばれたものが、わが国に伝えられたようである。
わが国最古の遺品は兵庫県古法華三尊石仏に浮き彫りされた石獅子であり奈良時代前期の作。
その後狛犬の遺品は少なく平安時代の木彫りのものがある。
東大寺南大門の石獅子一対は建久七年(1196)宋人石工の作で宋様式を多分に見せた表現である。
石造の狛犬は鎌倉時代から遺品が増えてくる。
三重県伊賀新大仏寺本尊台座の浮き彫り獅子も優れた作である。山辺郡都祁村(つげむら 現奈良市)水分神社狛犬は、前者宋人石工の造った宋風の狛犬とは異なり和風的な狛犬で鎌倉末期の作と考えられている古い石狛犬である。
このような古い狛犬の特色は顔を真正面に向け、顔は小さく、前脚を真っ直ぐに立て、胴はよく引き締まり、毛線は伸びて巻き毛が少ないなどの特色がある。
南北朝以降になると狛犬の彫刻も、他の石造物と同じように退化してくる。
権力の象徴であったその雄姿も愛玩犬のように小型化しかれんな作風となってくる。