御前崎 くだ狐
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乍恐以書付奉歎願候
高木市太郎知行所遠州榛原郡白羽村百姓
次郎兵衛并妻なか奉願上候私義代々百姓渡世ニ罷在
然ル処先年村方庄左衛門と申ものくだ狐と歟(か)申者を
遣ひ右妖術ニ而人之病気を療治致又ハ占卜等をもいたし
不思議之義多く人々帰依療養専
流行致謝礼金銭等多分ニ請之候処其後
右妖術相顕所住居不相成当時他村ニ罷出
所々経廻り罷在候由之処右野狐末相残候哉
度々所々病人口走り候ハ右之者ニ被遣候所当人
所住居不致候間右屋敷跡ニすまひ候抔と申義
度々有之処当春以来ハ野狐付候者如何之訳ニ
候哉私ニ被遣候抔申候趣ニ而所々ゟ(より)申来候者も
有之甚以私難渋仕候へ共其者口述而已ニ而証拠と可致義も
無之右様無拠悪評野狐之為ニ流言被致候段
残念ニ奉存候得共無致方種々差縺罷在然ル処
当七月中広沢組之内江同狐付候者有之其者も
私方ゟ飼置候狐之由申之趣承り全無覚事(おぼえなきこと)二
御座候間私義同家へ罷出種々妖狐付へ尋問候へハ
一円何事も不申乍併私方ゟ来候と申趣ニ候得ハ
全我等方ニ養置候義ニ候ハヽ我等と一緒ニ可参と
申候へ共一向無言ニ而仕方無之ニ付是非共右申口
慥(たしか)ニ聞届度奉存候故其場ニ而ハ押而も不相尋
右広沢組野狐付親々(おやおや)親類等と申談何レ今夕
私方へ御召連被下候よふ引合相附置帰宅仕候得共
全無実之事故組合隣家等江相聞(あいきこえ)候而も如何と存
私屋敷前ニ砂山松木立場(たてば)御座候間夜半頃密々
私家内一同出張罷在広沢組江も其段申遣候所右
場所迠同所ゟ右妖狐付を引連参り候間付添人
中罷在候所ニ而其元(そこもと)義ハ我等方ニ被飼置候抔と
種々口走候趣ニ候得共我等方ニ如何いたし候而飼
置候哉其由来を委敷我ニも申聞呉(もうしきかせくれ)候
よふ相尋(あいたずね)候内隣家甚兵衛と申者其場へ参り差出口ニ申候ハ右等強而相改候ニ不及最早所々風聞も有之已ニ
次郎兵衛義ハ所住居も不相成筋之所土地人之慈愛を以
差置候義ニ候へハ妖狐付江尋ニ不及由申之候
然ル処妖狐付人申之ニハ旦那御前ハと何事か
可申ニ相成候所甚兵衛妖狐付へ申候ニハ何事も
最早明白いたしたり此上ハ何事も不可申と差留候処
妖狐付無言ニ相成候全夜半過殊ニ私并広沢組之御仁も
密々之参会ニ而諸人か知謂無之所
甚兵衛壱人其場江罷越既ニ決定之対談場所ニ
到り懸合も不相付(あいつかず)右様仕なし候段甚以不審ニ奉
存候全此甚兵衛と申者ハ私共村方ニハ身元相応ニ
有之処如何之術治を学ひ候哉近年夫婦共
病人を療治いたし候事を所業ニ致し両三年
専ら流行致謝義等も余程所得致候者ニ御座候
間此者右妖狐ヲ遣病人之療治いたし候得共右妖
狐口走リヲ厭ひ奸計ヲ以妖狐ヘ申付私を無実ニ
落し入可申と名差候義ニも可有之存候然ル処
其後組頭長兵衛娘十四五歳之者ニ一両日妖狐付口
走候ハ我等共仲間当時十五有之素ハ庄左衛門ニ
被遣候処外ハ庄左衛門江同道いたし候得共我々共ハ
其節被相捨候ものニ而今ハ去所ニ住居いたし
全次郎兵衛義ハ不存義ニ有之然ルを住居致候方ニ而
次郎兵衛ゟ参り候旨可申之と申故次郎兵衛難渋ニ相成
候義を申觸候得ハ同人難渋ニ相成候へ共全右様之
訳ニ無之間其旨申度右為知ニ一寸(ちょっと)附候趣口走り
依之村中も一同集会其段聞およひ疑惑相散シ
候ニ相成私義も大悦(だいえつ)仕其席ニ而一同和融事済
仕候然ル所私義ハ貧人故日夜海漁を以渡世
仕候間八月十三日夕七ツ時頃投あミ(とあみ)を携浜辺ニ網打
罷在候処私家内ゟ出火致候間驚駆戻り候処
最早家作一面ニ炎上り候得共少々之世帯道具等
半焼ニ付火中ニ立入少々焼候品引出候へハ大勢又々
火中ニ投入候間悉く焼亡為仕(しなし)候其節ハ多勢ニ
壱人無是悲乱行被致候へハ夫ゟ所々尋聞候へハ右
甚兵衛并増右衛門喜右衛門喜平要助庄七等頭取致大勢
を呼集其場ニ而焚火松を付直様打寄焼立候事ニ
相違無之候然ル上ハ右甚兵衛義右様頭取致候ハ
己レ不正之廉有之ニ付其罪私へ可塗ト存頭取候義と
存候全私義無実之難渋被申掛候義さへ命終も
不厭と存候処其上家財共焼亡被致村方住居も
難致候へハ右甚兵衛外名前之者共誠ニ以心魂之
遺恨難散(ちらしがたく)候間御上様御憐愍を以御召出
御吟味被成下候様奉願上候同人妖狐を遣(つかわし)罷在
候義を却而私江罪名相付村方住居不相成(あいならざる)様致
成候訳柄同人共江懸合申度御座候得共同人有福ニ
泥ミ(なずみ)村中一同中を遮り私義無実ニ落入候間無拠
御歎願奉申上候何卒右名前之者共御召出
対決御吟味被仰付可被成下度此段偏ニ奉歎願候
以上
安政二卯九月二日
当御知行所
榛原郡白羽村
百姓
次郎兵衛
妻
なか
匂坂
御役所