司馬遼太郎(1923~1996)
しば りょうたろう 1923年(大正12年)
8月7日 - 1996年(平成8年)2月12日)は、
日本の小説家。
本名、福田 定一(ふくだていいち)。
大阪府大阪市生まれ。
筆名は司馬遷に遼に及ばずからきている。
産経新聞社在職中、『梟の城』で直木賞を受賞。
歴史小説に新風を送る。
代表作に『国盗り物語』『功名が辻』
『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などがあり、
戦国・幕末・明治を扱った作品が多い。
また、『街道をゆく』をはじめとするエッセイなどで
活発な文明批評を行った。
季刊アステイオン」第二号1986年10月1日刊
「浄土-日本的思想の鍵」より抜粋~談話速記
●浄土真宗の風土
浄土教のなかでも親鸞の浄土真宗の自覚的なお坊さんは、
靖国神社には参らないしお稲荷さんにもむろん参りません。
それはつまり浄土教は多神教ではないからです。
いまはお盆をやりますが、お盆は一種の迷信ですから、
それも浄土真宗はやりませんでした。
江戸時代は他の宗派の信徒達、普通の檀家の百姓達がそれを
見て「門徒もの知らず」と言ったのです。
しかし私は、門徒というものは一つの規範を持っていた、
他の宗旨にはなかったが、日本の仏教のなかで、門徒だけは
文明の一条件ともいうべき「生活の規範」を持っていたと
考えています。
私の友達で、もう亡くなりましたが、サラリーマンの税金
訴訟で有名だった大島正一(1918~84)という同志社のスペイ
ン文学の教授は、彼は福井県の出身で北陸門徒です。
この人から、そんなことが近代日本の一隅にあったのかという
戦前の話を聞いたことがあります。
大島さんは兵隊にとられずにすみましたが、彼の福井中学の
同級生の多くが兵隊にとられました。
その友達から聞いたらしいのですが、華南の戦場で、
さあ突撃だということになったら軍曹以下が南無阿彌陀佛、南無阿彌陀佛と称えて行くんだそうです。
日本陸軍はどの部隊もステロタイプの文化をもっていて、どの部隊も同質の規律の中にありました。
ですからそんな話を聞いたことがなかったんです。
お前のとこは、不気味なとこなんだなぁというとそれは「称えるべきもの」なんだというのです。
越前では、出兵兵士を、駅頭へみんなで送りにくる。
そのとき母親が必ず窓を叩いて、息子が太郎なら「太郎、
お念仏を忘れるなっ」と叫んだそうです。
日本の他の地方から聞くと異様な感じがするかも知れませんが
これは当時普通だったというのです。
大島さんの年齢はいま元気なら68、9ですがそのくらいの年齢
の人で、そういう越前門徒ぶりというのは絶えたのではないでしょうか。
また安田章生(1917~79)という歌人、彼も私の古い友達で
これも亡くなりましたが、歌人としても、国文学者としても
藤原定家(1162~1241)の研究でたいへん意味のある一生を送った人です。
彼は播州門徒の家に生まれ、いま生きていたらやはり67、8
だと思います。
中学生の時に彼がハエをパンと叩いたら、おじいさんが、
そんな殺生をしたらだめだといったそうです。
門徒には規範があるというのはこれで、門徒はもの知らず
だけど、殺生はしないのです。
またあるとき、安田家にハエ取り紙がぶら下がっていて、
ハエがいくらでもくっつ いているんで、あれはどうなるんだとおじいさんに聞いたら、あれはハエから寄ってきたからしょうがないんだ・・・
つまりいづれにしても、積極的に殺生するなということですが、しかし、殺生すると罰があたるという意味ではないのです。
門徒には仏罰というような迷信はありませんから、阿彌陀如来が本願をたてて、せっかく悪人といえども、残らずお浄土に連れて行ってくださる、それに感謝する、それに感謝する意味を込めて、生き物を殺さないんだということなのです。
そのくせ一見矛盾して いるかのようですが、浄土真宗の僧侶は親鸞以来、肉食妻帯を(肉食というのは魚を食べること) 原則としてきました。
近江は非常に浄土真宗が盛んなところで、だいたい檀家が
五十戸ぐらいで、息子を大学にやるぐらいの経済力を持っている寺が多かったようです。
浄土真宗の場合、お寺の息子でお寺を継ぐ人を、江戸時代にも
京都に大学相当のものがありましたから、檀家が金を出して
留学させました。
貧しい百姓が、年貢を払ったうえに、一ケ寺を維持してさらに
その寺の息子を大学まで出していたのです。
そういう世界からいい例をあげると、外村繁さん(1902~61)という作家がいました。
この人のは 私小説ですけれども、まさに浄土真宗的小説です。
外村さんはお寺の子でなくて門徒の子です。
奥さんとの間のエロチシズムを書いていますが、やはり浄土真宗の文章です。つまり煩悩を大肯定しているわけです。
また、滋賀県ではありませんが、三重県の寺の出身の丹羽文雄さん(1904~2005)の初期の作品、特に母親のことを書いた作品は人間の煩悩というものを書いており、やはり浄土真宗のなかから出た文学だろうと思います。
空海(774~835)も煩悩は肯定していますが、煩悩を軸に
して即身成仏するというのが空海のセオリーでした。
しかし親鸞はちょっとちがっていて、どうしようもなく煩悩があるから人間だという、普通人間認識から出発しています。
新幹線でも東海道在来線でも、滋賀県を通ります。
田園の広がる近江平野を眺めていると、大きな屋根のお寺を1ケ寺囲んで家々があるのが目に付くはずです。
あれが滋賀県の景色で浄土真宗の景色です。
その浄土真宗のお寺は、他宗の寺と違い、いっぺんに
わかります。
中世の一向一揆のさなかにできてゆく形なのですが、要するに砦なんです。
屋根を大きくしてあれば、戦争の時に城を焼くための火箭が飛ばされても、屋根に落ちますから瓦は燃えない。
ですから屋根の部分、上部構造を非常に大きくしているわけです。
これに似た屋根は、想像図にある安土城の天守閣にある屋根、黒田屏風にある大阪城の天守閣最上階の屋根で、私はひょっとすると、この形は室町時代に蓮如が発明したものではないかと空想したりします。
ともかくも、戦国のころ浄土真宗は寺々が砦でした。
ですから浄土真宗のお寺は遠目にもひとめでわかります。
近江商人の発祥の地のひとつ、五個荘町、さきほどの外村
さんの生地にも非常に熱心な真宗門徒が多く、そういう
浄土真宗の一ケ寺を囲んだ景色のあるところです。
なぜ中世の浄土真宗が、そのように布教に熱心だったかと いいますと、領地が無かったのです。
同じ浄土教でも浄土宗と浄土真宗が際だって違っていたのは浄土宗には領地があり、どんな寺でも小さな田圃か山林を持っていることでした。
つまり浄土宗は農地地主として寺を維持していました。
というのは家康は江戸を開府すると権威のために東叡山寛永寺を建てます。
これは幕府は京都の天皇家に対抗する存在であるべきで、
しかも江戸を新しい首都にするためには、日本仏教のオーソリティである天台宗の叡山が必要であったということです。
一方自分の宗旨の浄土宗を大事にして天台宗と同格にし増上寺を造り、これを将軍家の二大菩提寺にしたのです。
ところが 一方の浄土真宗というものは、そんなものは無かったわけですから、信徒をもって田圃にする。
そのことを古くからある仏教用語で福田(フクデン)と言いました。
わたしのところも信徒でしたから、私の戸籍名 福田(フクダ)はフクデンからきているわけです。
播州の亀山の本徳寺というところの門徒であったことを喜び にして,福田という姓にしたそうです。
はじめ戦国時代は三木という姓だったんですが、江戸期には福田ということにして、明治以後、お上に届け出たそうです。
要するに門徒だということを喜んでいるという変な姓です。