おあむ物語
戦国時代ならではの興味深い記述
当寺との関わりはありませんが参考まで
弘化二年版 岐阜県郷土資料研究協議会 丸山幸太郎氏
子どもあつまりて おあん様
むかし物がたりなされませ といえば
おれが親父ハ 山田去歴というて
石田治部少輔殿に奉公し
あふみのひこ根(近江の彦根)に居られたが そのゝち
治部どの御謀反の時 美濃の国 おほ垣(大垣)のしろへ
こもりて 我々みなみな一所に 御城にいて
おじゃったが 不思議なことが おじゃった
よなよな 九つ時分(午前0時) 男女三十人ほどのこえにて
田中兵部どのゝう 田中兵部殿のうと おめきて
そのあとにて
わっというてなく声が よなよな しておじゃった
おどましやおどましや おそろしう おじゃった
そののち 家康様より せめ衆 大勢城へむかはれて
戦が夜ひるおじゃったの
そのよせ手の大将は 田中兵部殿と申すで おじゃる
いし火矢(鉄砲大砲等火器)をうつ時は しろの近所を
触回りて おじゃった
それはなぜなりや 石火矢をうてば 櫓もゆるゆるうごき
地もさけるように すさまじいさかいに 気のよわき
婦人なぞハ 即時に目をまはして 難儀した そのゆえに
まへかたにふれておいた 其ふれが有ば ひかりものがして
かみなりの鳴をまつやうな心しておじゃった
はじめのほどハ いきたここちもなく たゞものおそろしや
こはやと計(ばかり) われ人もおもふたが 後々は
なんともおじゃる物じゃない 我々母人も そのほか
家中の内儀(石田家家来) むすめたちも みなみな
天守に居て 鉄砲玉を鋳ました
また味かたへ とった首を 天守へあつめられて
それそれに 札をつけて 覚えおき さいさい
首におはぐろを付て おじゃる それハなぜなりや
むかしは おはぐろ首ハ よき人とて 賞翫した
それ故 しら歯の首ハ 「おはぐろ付て給はれ」と
たのまれておじゃったが くびもこはいものでは あらない
その首どもの血くさき中に 寝たことでおじゃった
ある日 よせ手より 鉄砲うちかけ 最早けふハ
城もおち候はんと申す 殊のほか しろのうちさわいだことで
おじゃった
そのところへ おとな来て 敵かげなく しさりました
もはや おさわぎなされな しづまり為へ しづまり為へと
いふ所へ 鉄砲玉来りて われらおとゝ(弟) 十四歳になりしものに あたりて そのまゝ ひりひりとして 死でおじゃった
扨々(さてさて) むごい事を見て おじゃったのう
其日 わが親父のもち口(守衛担当場)へ 矢ぶみ来りて
「去歴事ハ 家康様御手ならひの御師匠申された
わけのあるものじやほどに 城を逃れたくは 御たすけ有べし
何方(いづかた)へなりとも おち候へ
路次のわつらひも(通行の障害) 候まじ」
諸手へ おほせ置いたとの御事で おじゃった
しろは 翌の日中 せめおとさるゝとて みなみな
ちからを落して 我等も 明日ハうしなはれ(死ぬ)候はむと
心ぼそくなって おじゃった
親父ひそかに 天守へまゐられて 此方へ来いとて
母人我等をもつれて 北の塀わきより はしごをかけて
つり縄にて 下へ釣さげ
さて たらひに乗て 堀をむかふへ渉りて おじゃった
その人数ハ おやたちふたり わらハと おとな四人ばかり
其のほか家来ハ そのままにしておじゃった
城をはなれ 五、六町ほど 北へ行し時 母人にはかに
腹いたみて 娘をうみ為ひた
おとな 其まゝ田の水にてうぶ湯つかひ 引あげて
つまにつゝみ はゝ人をば 親父 かたへかけて
あを野が原のかたへ落て おじゃった
こはい事で おじゃったのう
むかしまつかふ(昔はこんなだった)
南無阿弥陀 南無阿弥陀
又子ども 彦根のはなし 被成よ(なされよ)といへば
おれが親父は 知行三百石とりて居られたが その時分は
軍(いくさ)が多くて何事も不自由な事で おじゃった
勿論 用意ハ めんめん たくはへもあれども 多分
あさ夕 雑水をたべて おじゃった
おれが兄様は 折々山へ鉄砲うちに まいられた
其ときに 朝菜飯をかしきて(焚いて) ひるめしにも 持たれた
その時に われ等も菜めしをもらうて たべておじゃったゆえ 兄様を さいさいすゝめて 鉄砲うちにいくとあれバ
うれしうて ならんだ(なりません)
さて 衣類もなく おれが十三のとき 手作のはなぞめの
帷子(かたびら)一つあるよりほかには なかりし
そのひとつのかたびらを 十七の年まで着たるによりて
すねが出て 難儀にあった せめて すねのかくれるほどの
帷子ひとつ ほしやと おもふた
此様にむかしは 物事不自由な事でおじゃった
またひる飯などくふといふ事ハ 夢にもないこと 夜にいり
夜食といふ事も なかった
今時の若衆ハ 衣類のものずき こゝろをつくし
金(こがね)をつひやし 食物にいろいろのこのみ事めされる
沙汰の限なことゝて 又しても 彦根の事をいうて
しかり(叱り)為ふゆえ 後々には 子ども しこ名(あだ名)を
ひこ根ばゝといひし
今も老人のむかしの事を引いて 当世に示すをば 彦根をいふと
俗説にいふは この人よりはじまりし事なり それ故
他国のものにハ通ぜず 御国郷談なり
右去歴 土州親類方へ下り浪人 土佐 山田喜助
後に蛹也と号す
おはんハ 雨森儀右衛門へ嫁す 儀右衛門死して後
山田喜助養育せり 喜助の為には(とっては) 叔母なり
寛文年中 よはひ 八十余にして卒す 予その頃八、九歳にして
右の物がたりを 折々きゝ覚えたり
誠に 光陰ハ矢の如しとかや
正徳の比は 予すでに 孫どもをあつめて 此もの語りして
むかしの事ども とり集め 世中の費(ついえ=お金の使い方)を
しめせバ 小ざかしき孫どもが むかしのおはんハ彦根ばゞ
いまのぢ様ハ ひこねじいよ 何をおじゃるぞ
世は時々じやものをとて 鼻であしらふゆえ 腹もたてども
後世おそるべし 又後世いかならむ
まごどもゝ またおのが孫どもに さみせられんと(その様にいうだろうが)
是をせめての勝手にいうて 後ハたゞ なまいだなまいだ(南無阿弥陀 南無阿弥陀)
より 外にいふべき事なかりし
右一通 事実殊勝の筆取なり
誰人の録せるや 未詳 遊(疑)らくは 山田氏の覚書なるへし
田中文左衛門 直の所持をかり出しという事しかり
享保十五年(1730)庚戌三月廿七日