小堤山公園 午後の世話人会 改悔文を口ずさむ

冷たさは残ったものの、朝から好天に恵まれて、ここのところの懸案だった本堂正面障子の滑車の修繕を。

正面向かって右側の障子が最近ガッチリ固まって微動だにしないといったことが何度かありました。

午後からは世話人会がありましたので開閉がスンナリ行くようにそれを外してみると・・・

 

2つある滑車ともそれぞれ2カ所ある留め釘の1つづつが無くなり尚且つそれを支える木材が腐食していました。

当初長めのビスで対応すればと安易に考えていましたが、これまで何度もその手の再生を試みた形跡があり、もはやベースの木材にそれを打ち込む余裕はありませんでした。

本来ならば滑車が納まるスペースを新たに工作する必要がありましたが、それはなかなか難しい建具屋さん級の技仕事。

そして何より時間がありません。

よって、速乾性の木材の充填剤を滑車の回転部分に付かないよう注意しながらベース部分に塗布してビスを差し込みました。

レールも数カ所のビスが飛んでいましたのでそちらも修復。

 

そして装着。思い通りにスルスルっという具合に開け閉めができるようになりました。ただし当分は注意して見ていくことにします。

 

世話人会は通常より長めでした。

いつもなら正信偈一同拝読のあと「春の法要」についてのお願い、概略を皆さんに説明したあと質疑応答でおしまいという運びとなりますが、昨日は終了後、総代の掛け声で、ある提案がなされました。

お寺の新しい会館の運営についての話し合いを世話人会で了解を得たいということ。そして当事者である私と奥方は退場を促されました。

住職がそこにいれば「遠慮して自由な発言ができない」という配慮とのこと。

言いたいことを遠慮なく話し合うという時間を持つということは悪いことではありませんが、耳の痛い話などは私などいつものこと。慣れきっていますのでそこまでしなくてもいいかとは思いましたが、それは意見したい方への気遣い。

ますますの論議の進行があるならと、しばし庫裏に戻り居眠りを。

 

するとしばらくたって「世話人会にて合意が」なされたということで庫裏にお迎えがあり、その提案書面を拝見させていただいた次第。

檀家さんが会館設備用の資財購入資金を応分、担っていただけるというもので、お寺にとってはこの上ない仕合わせなこと。

これから椅子とテーブルについての工面に取り掛かろうとしたタイミングでしたから。

 

しかしながらこのご時世です、その負担について少々の不安もありました。その拠出が簡単ではないお宅もありましょう。

あくまでも「強制しない」とのことですが、お金という生活必須でかつ思い通りにいかない部分です。

皆さんとの関係をギクシャクさせたくないという気がかりもあって単純には喜んでいられません。

とにかくいよいよ檀家さんに頭があげられなくなったことは確かでまた大いなる責任が増えました。

 

お寺と檀家さんの関係というとその手の類、どちらでも良好維持の繊細なポイントなっているようです。

一般的に言って「おカネは大事」です。

仏教でそのこだわりは無用だとは言ってもね。坊さんはノー天気で色々好き放題言い放つ傾向があるようですから。

「生活」というものと天秤にかけるとなれば別次元です。

総代は「無理なら無理」を聞いて承っていくとのことです。

 

私は今、お西(本願寺)で何故かそのいろいろ揉めているらしい(詳細興味なし)蓮如さんが記されたといわれている「改悔文」(お西では「領解文」と呼びます)を口ずさんでいました。

短い文言で頭にこびりついていますので私は暗唱スラスラです。

 

改悔文

「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて

一心に阿弥陀如来 われらが今度の一大事の後生

御たすけ候へと たのみまうして候ふ

たのむ一念のとき 往生一定御たすけ治定と存じ

このうへの称名は 御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ

この御ことわり 聴聞申しわけ候ふこと

御開山聖人御出世の御恩

次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩

ありがたく存じ候ふ

このうへは定めおかせらるる御掟

一期をかぎりまもりまうすべく候ふ 」

 

 

この文の件、特に赤字の部分は私の好み。

「タノミ タノム 御恩報謝 よろこび 御恩 御恩 有難」 そして「掟」の締め

 

画像は障子のセッティングを終え、安堵してから小堤山をぶらぶら。

本多家御一統の墓域前で、田沼田沼でうわっついている私の心をしばし反省。お詫びしました。

 

そして本当の春が来ますように。