畠山義総の冷泉家への礼状 再び邯鄲を思う

堂内2℃は今節最低。

風は大人しくしてくれていましたが空気の冷たさはやはり今季一番。

手指に「刺すような・・・」の感覚。参拝者もさぞかし忍耐を強いられたことでしょう。

週明けの西からの高気圧の張り出しに期待します。それから一気に・・・という願い。暖かな空気と花たちの彩りに覆われる・・・考えれば夢のようです。

 

昨晩の大河ドラマでは「金々先生栄華夢」の序を朗読する場面がありました。

その書の市中のウケがことさら良かったところが番組で描かれていましたがその手のところ(「夢」)は誰もが思っているところなのでしょうね(邯鄲)。

まぁ各それぞれの違いはあるのでしょうが、まずそれは自己中心的で都合のいいものばかりというのがおきまり。

そして刹那的という時間の感覚がつきもの。

そしてオチというか儚さというところもウケたのでしょう。

 

扨、壮大な山城七尾城(松尾城)、畠山家は初代畠山満慶に始まり(1408)上杉謙信の手によって滅亡する(1577)11代城主(別説あり)まで170年余、この地を治めました。

戦国の栄華などいうと極めて儚いということは歴史を知った風の私にとって認知するところです。

 

そして家というもの(家臣団)の安定期が続けば文化というものが開花するというのも当然なる流れといえましょう。

安定・・・安心と余裕があってこその文芸ですからね。

 

七尾城主でその栄華の時期といえば畠山義総(よしふさ)で七尾のイメージを地方の京都の如く高めたやり手の人です。

「七尾の地方史」に冷泉為広が能州に下向した件が綴られていますが、冷泉為広は永正十四(1517)、そして大永六(1526)に子の為和とともに七尾の畠山義総のもとを訪れています。

大永六年の七月にこちら七尾で亡くなったようで畠山家の手で葬儀が執り行われたことでしょうが冷泉といえば歌人。

 

京文化を引き入れるにはもってこいの貴人でした。

城中では幾度かに渡る歌会が催されたとのことで家臣団の者たちがこぞってその弟子入りを願ったとのこと。

 

江戸期の女郎は読み書き当たり前、戦国の地方の武将たちも歌を詠む・・・そのセンスがない私など野暮もいいところです。

 

冷泉為広は滞在中、石動山にて歌を詠んでいるといいます。

はるばる京都から訪れて、七尾の山だけではなくその山系のトップまで登るとは・・・洛中での生活にあってもこの能州山海の美しさはクセになったのでしょう。

画像は義総の礼状。高価な薬を戴いた御礼も。

 

③④は七尾城山頂駐車場近くの展望台。

こちら付近に物見櫓があったことでしょう。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (月曜日, 24 2月 2025 18:25)

    「金々先生栄華夢」に驚いたひとりが春風亭昇太師匠だと思います。 2024年12月の静岡市清水区における小島藩陣屋復帰記念式典の際に、トークショーで恋川春町の登場をひたすら願っていました。 ご承知と思いますが、小島藩主香華寺の清水区の龍津寺に恋川春町の墓所もあり、恋川春町の子孫が清水区・小島藩主の子孫が葵区に在住です。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 24 2月 2025 19:22)

    ありがとうございます。
    今でいうベストセラー作家というものは名声アップと経済的にもリッチになると思うところですが、当時の彼の立場上、それを謳歌できなかったのでしょうね。
    松平定信が老中になった段階で負け組になった感。それは田沼と相良も同一です。
    為政者の首が入れ替わるだけで人生が一変する・・・昔も今も・・・
    米国大統領殿の件もそのようです。