昨日もまた静岡は軒並み最低気温の更新。
一日中頭痛アリ。よって、何事も「やる気なし」の風でしたが
何とか世話人会召集のハガキを仕上げてから近隣世話人様宅廻り。
勿論切手は貼らずポストインは自身で配達です。
切手代の値上げの対応です。
私の頭痛の件、奥方は「冷えると血管が縮まるから~」と言いますが「ほんとかよ~」。
まぁ昔からそう思うようなシチュエーションあってしばしば鎮痛剤にて対応していましたが。
扨、昨日の謙信の余裕と籠城方の苦境について後世記された伝記(能州国司畠山殿伝記)にこうあります。
「能州国中ノ男女老若、謙信公ノ武勇ニ恐レ、驚キテ、殿助ケ候ヘトテ、国司の城ヘツボミ入、城中ニ居余リ、山中ニ満々タリ。
サレバトテ謙信公は七月上旬ヨリ九月末マデ、国司の城ヲ取巻キ、昼夜ヲ分タズ責メタリ、城中悉クツカレ、国司畠山殿ハ城内場外、又ハ山中ノ雑人共ノ尿糞、不浄ニ痛マセ給ヒ、其儘病悩ト成リ、御煩重クシテ・・・」
多くの領民が城中に逃げ込んでいたことが分かりますが~数千人ともいわれます~、上杉軍が城内に乱入したのちその領民たちがどうなったかという伝えがまたあります。
七尾城の尾根を削る谷には河川が数本流れていますが(画像①②の図)、七尾城史料館の近くに「木落川」(きおとしがわ)なる本丸付近の高所を水源とする川があります。
謙信が七尾城攻城の際は城下に陣を敷いて山を包囲、二百日以上にわたる兵糧攻めを行いました。
一説に一万人近い人々が籠ったともいわれますがそうだとすればいかにも効果的な戦略を謙信は選択したということですね。
よって城内は劣悪環境に陥って(昨日ブログ)城主の春王丸までも死去に至り七尾城守備陣は瓦解します。
広い山系尾根を突破逃亡した面々も当然にあったでしょうが、城内には飢えと傷病により困憊した人々が残されたのでした。
上杉軍はその本丸付近の尾根から谷底の木落川に人々を蹴り落したそうで、川は血で染まったそう。
そのことからその「木落川」の名は後世「蹴落川 けおとしがわ」と呼ばれるようになったと。
やり手でクールなイメージの上杉謙信、ダークな部分を垣間見た思いです。
まぁ戦場のドサクサと末端配下雑兵共の暴走というのは何時の時代もつきものですからね。
まぁその手の伝えがあるということはまずそれは事実に近いと見ていいのでは・・・
それにしてもエグいことをするものです。
③~史料館近くの登城口。
辺り少々散策しましたが、この道の先はその頃から崩落等で通行不能とのことでした。
本丸近くへの車道も通行不能で、唯一本丸に上がれる迂回道を迷いながら上がりました。
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