寒さ一層、それに強風付きですから話になりません。
外気は最高気温8℃、10℃割れです。
強風はさらに体感温度を下げます。
境内作業と庫裏との往復頻度が高かったのはただただ「冷える」から・・・庫裏で何回その「寒い~」を口にしたでしょうか。
あと少し・・・忍耐の日々続きます。
扨、先日は七尾史料館前の地蔵堂について記しましたが、インパクトがあったのは何といっても二つ引き両。
史料館の外壁はじめあちらこちらに目につくのはその紋ですね①~③。
その理由はこちら七尾城の主、畠山氏が足利将軍家一統、管領家からの流れだからです。
「二つ引き両=足利」のイメージというのが私の脳内理解でしたので一瞬間「あ~」でした。。
先般は当地の名前の件「畠山」と「冨樫」の姓をみかけると心ときめくような事を記していましたが、それに反して小丸山城麓に地元アピールのあった「前田」のイメージはそれほど・・・という感じ。
ただ地元ではあまりにも有名になった前田利家とその大河ドラマの放映に因んでの盛り上げだったかと。まぁ捉え方は人それぞれ。
七尾市古屋敷町は七尾城の麓の地にあっていわゆる登城口。
史料館のある場所でもありますが、やはり何よりも「畠山」を讃えたいという意志が垣間見られますね。
地元の民たちから守護畠山氏の滅亡の後も永年にわたり古の良き時代を懐古してそれを敬いつつ伝えてきたという感じが滲みでています。
②の脇差(銘貞宗)は七尾城主十代義隆が古屋敷の飯田家に授けたものといいます。廃城後もその飯田家が荒廃を防ぐために努力してきたと。
「恩顧に報いる」が代々伝わっているということですね。
反面、新しく入った領主、前田利家による結構にエグイ伝承を目にしました。
こちら古屋敷町に「ショウバタケ」なる名が残っているそうですがその語源は「お仕置き場」ということから。
処刑場ではありますがそれは耳に優しい「お仕置き」なる語となっています。
前田利家が小丸山から尾山(金沢)に移る際、民に従順と威厳を示すために多くの人を「処刑」・・・殺害・・したというものです。
またこの古屋敷周辺では能登畠山支流の松波畠山氏、松波城下の人々が上杉謙信来襲の際に協力したということから過酷な労役をさせられています。
その過酷から逃亡したという咎で捕縛後、前田利家は見せしめのためその一族52人をこちら古屋敷周辺で磔刑に処したそう。
この地は特にたくさんの血が流れていたのでした。
④⑤は越前笏谷石(しゃくだにいし)製の「石鬼」の阿吽。
七尾の山の寺寺院群の一、宝撞寺の本堂にのっていた鬼だったといわれますが風化が見られず原形がハッキリと遺っていることから、美的であるということからか保管されていたとも。
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