前田利家当初築城 小丸山城 麓の光徳寺の丘の上

明け方の「温か!!」の歓喜とは裏腹に次第に強烈な風と寒気に見舞われました。

例の薄っぺらな法衣で外に居る時間がありましたがまさに吹き飛ばされやしまいかと踏ん張ったほどでした。

これから来週、再び寒気に覆われるといいます。寒いのはまぁしょうがないとして、風はイヤですね。

寒さに拍車がかかることは勿論、火事が滅法怖い。

 

拙寺境内はまだ梅たちの満開までには至っていません。

桜の季節の穏やかで青い空の下が恋しいということですね。

 

扨、私が七尾をぶらついた際はその桜の満開が青い空の下にあって深呼吸などすれば、いたって「仕合わせ」を実感したものです。

その後この地があの「地獄」というものが到来したのでしたが。

 

光徳寺の掲示板にありました通り、寺がかつて水害にあった際

移転先について現在地かその隣の小丸山かの選択肢があったそう。昔から災難に遭いまくっていた寺だったのでした。

参拝に便利な麓に決めたとありましたが以前のその小丸山は前田利家が手掛けた城があったということがあって地元ではその前田利家を顕彰しようとする雰囲気を醸し出しています。

 

前田利家は天正九年に信長により能登一国を与えられたことから七尾に移りましたが、何しろ畠山氏の七尾城は堅固ではあるものの普段使いに超不便ということで港に近く河川も近くに通る所口村の小丸山に城を構えることにしたようです。標高22mの丘の上、平山城ということになります。よってこちらの城を七尾城と呼んでいた時期がありました。

 

秀吉時代の天正十一年になって加賀二郡(石川・河北)を加増された利家は金沢城に移ることに。この城の完成前には金沢城に入っています。

よってこちらの城には彼の兄、安勝が入りますが、1615年の一国一城令によって廃城になっています。

 

小さな丘ですのでブラつくのはお気軽、今は市民公園になっています。

①の堂は光徳寺。②の背後に墓域が見えます。

③④⑤は大河ドラマに採用されたその地元の歓喜が伝わってきます。

⑦は丘の上から見た光徳寺と七尾湾。

本丸脇にも長谷川等伯の顕彰碑⑨⑩が(昨日)。

 

七尾といえば前田利家と長谷川等伯の二大歴史スターがいるということで。

利家は金沢からではありませんよ。まず七尾からですね。