ゆがめられた経世の政治家 田沼意次 後藤一朗著

厳しい冬というものを何度か経験していますが、まさかこれほど寒いとは・・・というのが昨朝あたりの感想。

県内いたるところで氷点下。

夜間の風は殆ど台風なみ、北側の洗濯部屋の屋根が今にもぶっ飛びそうな音をたてていました。

「厳冬ピーク」の声は一体何度聞かされるのでしょう。

息子は当方宅に一泊し、早朝静岡での葬儀に向っていました。

 

来週は絶対に温かくなってくれよ・・・切なる願いですね。

 

現在ここ数日の私どもの作業といえば、本堂内陣の余間にいらっしゃる「海の如来」さんを引き釣り出して本体と余間の清掃作業。

先代の本堂修繕の際、当時の総代が京都の仏具屋に金箔を貼らせたといい、私が気づいたときは金ぴかの阿保丸出しの姿で戻ってきました。

同時代のお寺の坊さんでやはり寺に伝わる聖徳太子像を金色に塗りたくったものがありましたが、浄土の荘厳を表現するといえどもあそこまで(髪の毛まで)やるか?とがっかりさせられたものです。海の如来さんは仏具屋の手だったことから螺髪は金ではありませんでしたが。

「昭和一桁生まれだから」と私はその傾向を断じ自身納得させていますが・・・「修繕」だからと安直に手を加えれば本来の姿を劇的に変えてしまいますね。センスの問題もありますが。

 

特に拙寺の海の如来さんの台座もその銘文まで見えなくなってしまうほど。手でなすって金箔を剥がしてやろうか・・・とも思うほど分厚く。

 

その伝承である「海の如来」と呼ばれる由縁は文字通り漁師の網にかけられてあがったというものですが、静波の明照寺の梵鐘(小島蕉園)の出所も海でした。

全国どちらにでもある「海から 川から・・・」はまず取ってつけたような作り話でしょうね。

本当のところは誰も判りません。

常識的に「そんなワケない・・・」ですからね。

 

先日も中村氏が「そんなワケない・・・」とばかりに拙寺本堂の建築材について相良城との関りを否定されていたことを記しましたが、中村氏以前の相良田沼史の先達後藤一朗氏はその書籍の中で拙寺本堂について触れています。

 

この書籍は一昔前の相良田沼意次研究の第一人者後藤氏によるもので、その意図するところは田沼意次への誤解を解くことです。

今の田沼評価変遷のその端緒ともいうべき道を開いた方ですね。

発刊は1971年。

副題に「ゆがめられた経世の政治家」とありました。

 

拙寺関係の記述には櫓太鼓もありますが、拙寺本堂の移転再建のきっかけが相良町誌にはない「焼失」とありますが・・・。

ここのところも実は何が本当かわからないのでした。

要は城の正面にあって邪魔になるということ、内々の了解があって火をつけたのではないかという推測もあるのでした。

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (日曜日, 09 2月 2025 00:28)

    後藤一朗さんは、牧之原市ではじめて田沼意次侯顕彰法要を平田寺にて主宰しました。(現存の当日参列者は数名)  牧之原市民にはあまり知られていない後藤一朗(海堂)さんが描いた田沼意次肖像画が、「べらぼう」に登場することを期待しています。  意次の菩提寺である勝林寺を紹介の際に、墓石とともに姿を見せると想像。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 09 2月 2025 20:29)

    ありがとうございます。
    おそらく御推測の通りその画は紹介されるのではないでしょうか。