ここ1週間は辛抱の時間、何とか(笑って)やり過ごす他はありませんね。
まぁ大概の地で悩まされている災害級降雪が皆無というところは有難いことです。
拙寺開祖は戦国期に信長を嫌って近江安土から遠江に辿り着き顕如さんの号令に従って再び大坂本願寺―紀州へと赴いてからしばらく「本能寺」を機に本格的に道場として宗旨を伝えるべく当地に戻ったのでしたが、どう見てもこの駿遠の地は真宗には馴染みの薄い場所です。
戦国末期の大勢としては真宗王国とも言われる北陸方面でありそちらに向かうという選択肢もあったはずですからね。
越前加賀能登越中越後です。
たまたま拙寺開祖の今井権七に三河赤松の叔父の伝手があったとはいえ、何も六字の名号(南無阿弥陀仏)の感覚に縁遠い地へ向かうことは大変な冒険だったのかも知れません(真宗寺院で大坂本願寺籠城組、解散組~天正期~が地方へ下って道場を開設し今に続いている寺は古刹からの改宗組を除いて案外多いものがあります)。
もっとも拙寺には後から次々と近江から多くの人々を呼び寄せている感があります。
その件、現状の檀家さんたちに繋がっていますね。
要は「遠州は良いところ 雪は無いし温かい 移住するなら当地へ」のようなキャンペーンが近江辺りで繰り広げられていたのかも。
ということで今の私どもが胸を張る南遠住環境の良さはすべてご先祖様のおかげということになります。
もしあの時、別の地に向かっていたら・・・このようなお調子にのった日々が送れなかったのかも。
「寒い寒いといっても知れている」(「奥の墓道」氏談)。
それもあと少しの辛抱。
境内ではようやく梅が一輪開花しました。
扨、岡寺の岡のさらに上、本堂を見下ろす岡。
僧義淵の墓と伝わるの宝篋印塔があります。
岡寺の開祖、法相宗義淵のイメージは国宝に指定されている座像
がありますのでこちらを。
南北朝中期(延文五)の銘のある宝篋印塔です。大きな欠損も見当たらず、永年にわたりこの岡の上から明日香の地を見下ろしていたことでしょう。
以下奈良県史より。
高さは108cm花崗岩製。
基礎側面四方に輪郭を巻き三面格狭間、一面に次の刻銘。
竜蓋寺
如法経(法華経)奉納
延文五年十一月廿日
(あと二行判読不能)
塔身月輪内に金剛界四仏の種子を刻み笠下二段上六段、隅飾りはニ弧輪郭巻き、相輪も完備する。
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