昨日は先日伺った例とは別、やはり正月の医院軒並み休診期間中にインフルエンザに感染し、右往左往の末に結局亡くなってしまった方の悲惨の件をお聞きしました。
当家奥方もボヤいてしましたが年末年始に「どこだかわからない当番医に行くなど御免だ」とあって「そんなら自宅で~」になるのはやむを得ないことだと。
その亡くなった方の際もまったく当番は「畑違い」の医院だったそうです。それでいて救急車を呼ぶことになるのですから・・・
正月などまったく目出度くない・・・
昨日も殆ど一日中外仕事。
静岡県庁からお客さんが3名ほど視察に来られましたが・・・。
排水溝に凝縮して詰まった落葉の除去にてこずりましたが風が吹いて落葉たちは何故か境内に舞戻って行きました。
落葉「乱舞」といったところ。あ奴らが再た雨に流されて排水溝に詰まれば・・・バカの極み・・・。
まぁ私は「バカを歓ぶ」宗旨と心得ていますので、いつものことですが。
この「バカを歓ぶ」には語弊がありましょうが、他流の坊さんにあっておそらく当流の阿弥陀仏への憧れのような思いを持った方がいましたね。
多くの歌を残していますが一つ記します。私も大好きな歌です。
「おろかなる 身こそなかなか うれしけれ
弥陀のちかいに あふとおもへば」(良寛)
私が思うに父親も息子も相当なバカ、勿論私も大バカで・・・目出度たさ強烈、乱舞レベル。
その落葉はじめ「乱舞」から。
先日記した「相良海老」の意次多能の人に「乱舞」とありましたが、一般的にそれを聞いて「何のこっちゃ・・・」となることは当然のこと。
日本大百科全書[高山 茂]
「とくに定まった型や曲はなく、歌や音楽にあわせて自由奔放に手足を動かして舞い踊るものをいう。平安末期から鎌倉時代にかけて、公家貴族の殿上淵酔 (てんじょうえんずい) で乱舞が盛んに行われたが、このときの乱舞は朗詠、今様や白拍子、万歳楽などを取り入れて歌い舞われた。このような殿上淵酔の乱舞は猿楽 (さるがく) ともいわれ、やがて専業の猿楽者の演ずる猿楽をも乱舞といった。乱舞はその後の猿楽能はじめ、さらには風流(ふりゅう) 踊にも影響を与えたと思われるが、具体的なことは不明である。なお、能楽の乱舞 (らっぷ) は一曲のうちの一節を舞うことをいったようである。」
扨、洞泉寺の墓地を散策してからこのお寺の石風呂に会いに。
川勝政太郎氏の日本石造美術辞典にも掲載がある特異な代物です。
川勝さんの掲載では本堂前の地蔵堂の傍に「放置」してある感とのことですが、現在は大切にその安置場が庫裏と本堂の間のスペースに設けられています。
「南北朝時代後期 高50㎝ 硬砂岩
かたい石をくりぬいて、また手のこんだ仕事がしてある特異な水船である。長さ2m幅1.25mであるが先端部に段を設けているので水船主体部は2mはない。三方に縁を取り、内部四壁にそれぞれ金剛界四仏の種子が刻んである。
先端の段には地蔵堂の地蔵菩薩をはめ込んだという。おそらくこの水船は石風呂であろう。
四方の側面外側は、ある高さだけ仕上げて、下方は荒石のまま残してある。荒石の部分は浴室の床板下に隠される部分と考えられる。」
また、奈良だけに奈良県史7石造美術にも詳しく、サイズに関しては多少の違いはありますが、地蔵堂安置の地蔵に関して「垢弧湯船地蔵」(高147㎝幅90㎝厚さ47㎝の箱型石仏)とあります。
「上面に孔があけられ、地蔵の上から湯を流して施湯したと伝えているがその真意は確かではないとのこと。
一説では、この水船は郡山城築城のおりに石垣用材として他所より運ばれてきたが、城内雨落ち用に使用され、後にこの寺に運ばれたものといわれる。」
壊されないで遺されて良かった。
石風呂はたまたま運よく助かったのでしょうね。
あの時代の城郭石垣用材集めはどちらも念入りでした。
現実、郡山城の石垣には石仏・墓石たちが多く見られます。
しかしこのような浴槽はかなりの贅沢ですね。
私は地蔵より阿弥陀仏からお湯を・・・など考えますが。
こういった石風呂がウリの銭湯があれば行きたいですね。
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