午前中の庫裏玄関は奥方にまかせて私は大晦日のドタバタの片づけを。
終了後、万歩計のカウントは境内だけで8000歩。
正月はご馳走にありつけるというタイミングでもあって皆さん「血糖値上昇にご注意」といいます。
その日はおかげさまで運動ができました。
たくさんの方たちにお手伝いいただいてのお遊び成就でしたが、設営の際、法務の為に立ち会えなかったことは残念無念。
それは私の当初の計画「お願い」が大きく外れていたことですね。
総代受付の設営位置が私の計画と違っていたことがまずそれ。
事前のポップ類貼り付けの矢印方向が変わってしまったこともありますが、設置位置が当初予定した周囲何にも干渉しない広いスペースの鐘楼前ではなくて只今工事中の建屋と門の間にカッチリとはめ込まれてしまっていたこと、それには悶絶しました。
4人で各支柱を持って移動させたことでしょうが「うまく嵌めたから・・・」とのことでした(奥方の「計画と違う」の弁への返答)が・・・、問題は組立も解体も私一人で行う、というところです。
組まれた単管パイプを解体する際は最悪倒してもいいような(大きなスペースで)感覚でバラしていくことを想定しての作業ですが、よもやの変更事項。
建築中の建屋、門の隣でお参りの方の通行もある狭小の場ということから気をつかいながらの解体となりました。
何事もありませんでしたから、まぁいいか。
バラしたすべての単管パイプを本堂西側の床下に片づけておしまい。
またその仕事だけは大人数で行うことはできません。
「わーっ」という流れは絶対に墓石にぶつけて傷つけますからね。長尺モノは私独りで出し入れすることに限ります。
焼き芋の販売は1個200円に値上げしたためプラスになったのではありません(人件費はまったく無視して)。
これまでその「焼き」のご担当が主張していた「豆炭」の購入をヤメてもらったからです。それは大分高値になってますし。
私が子供の頃より見ていた焼き芋屋でそんなものを使っているところは無かったからで、その件以前から疑問に思っていました。
前回の報恩講からそれを「マキの火力のみでタノム」を主張しました。マキだけの方が火力が強く早く美味しく感じますしね。
皮もパリッとしてそのまま食してもOKなくらい。
ところが私が法務から一旦拙寺に舞い戻った際に息子が「鋸は買いなおさなくちゃね~」と一言。
私が用意して積み上げていたマキが「釜に入りきらない」ということでひと騒ぎになったとのことでした。
電動工具やらノコを小屋から探し出したようで、夕刻にはそれら外に出ていました。拙寺の電動工具は廃棄用で動かないものでしたが。
よって総代さんが自宅まで丸鋸を取りに行ったそう。
私がいればそんなことにはならなかったでしょう。
イザとなればチェーンソーをブン廻すことは楽勝にできますが、そもそも釜に「材が入りきれない」などは想定内のことでした。
朝方は私がそれでもって火を入れて維持していたのですからね。
燃やしてしまう材をわざわざ丁寧に切りそろえる必要はありませんし、マキそれぞれ全体を釜に入れ込む必要もナシというのが私の考えでした。
釜口からはみ出ても奥が燃えれば中に押し込めばイイといったところ。
釜の周りには息子も含めて3人もいるのですから。火の管理はバッチリのはず。
皆さん几帳面すぎなのですね。
その手の野卑な仕事にはあまり関わったことがないのでしょう。まぁ文句など言えませんが。
私がアバウトすぎとは感じるところまぁありますし。
焼き芋販売がプラスになったとはいえ、鋸を新調しなくてはなりません。いい機会だと奥方に頼み込みます。
それもそのノコは大工用の繊細加工用の薄っぺらいものでマキを切るなどありえない代物でした。
もし私が以前の仕事先でそのように道具の選択ができないところを目撃したとすればおそらくド素人呼ばわりして笑ったことでしょう。
ご門徒さんたちが善意でやったこと、私が不在にしたことからそうなったので致し方ないですね。
息子もその流れは止めることができなかったかと。
尚、小型のノコは亡くなった叔母さんの遺品だったことで大事に使っていました。
これからは大事なものは物置の奥に隠しておこう・・・。
あの「流れ」は・・・怖い。
昨日の片づけ仕事は独りで行いましたが、それは奥方が絶不調に陥っていたため。夕刻過ぎの体温は39.5でした。
ということで夕飯は冷飯と缶詰でした。
何だかわかりませんが、感染症だとすると6日と7日の法務を抱える身として気が重い。
扨、石山寺の多宝塔がある広場の隅っこには3mはありそうな
ずっしりどっしり感ある花崗岩造の宝塔が見えます。
あのガイド付き一団が階段上を占拠していましたので私はまずその存在感示しているそちらへ。
厳密に笠上端までは205㎝。
わざわざそう記すのは相輪が後補だからですが、この世界の権威川勝政太郎氏によればその相輪の造りは「まずい」と酷評。
後補製作者がその時代の様式を配慮しなかったか、工作自体がまずいのか、それともその両方か。
どちらにしろ寺がOKを出したのですから仕方がない。
①②は多宝塔下の鐘楼前。
最期の「叶う」の記述も後補でしょう。そなワケないだろう・・・の嫌味。
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