無慙無愧のこの身にて 石山寺天智天皇石切り場 

ただの365分の1である・・・という割り切り方もありますが、ご門徒さんで大晦日に亡くなった方がいらっしゃいました。

勿論例の回忌表に追記しなくてはなりませんが、あと一方、当家遠縁の方が12月31日というタイミングでの逝去の件もありました。

そして拙寺ご門徒(前者)宅ではつい先日、12月24日に亡くなった方があって、続けざまの訃報になったといいます。

 

そういう一大事に私が関わっていることもあってこの時期大多数の方たちから「おめでとう」といわれてもそのままその語でもって返す気にはさらさらなれません。まぁ毎年のことですが。

毎度、世間でいう「喪中」なんですね。

自身人間の器が小さいこともあって割り切ってその台詞を吐いて演じることができないというところも。

ただ報謝御礼の言葉をもってつなげますが・・・。

 

特にこの時節のお弔い全般を取り仕切る御家近親者の疲労困憊、憔悴による健康への悪影響は察するにあまりあるところ。厳寒期、心も体も冷え冷えは当然です。

大晦日の真昼間にノー天気で遊び呆けていた自分が思い起こされて恥じ入るばかり。

 

昨晩のNHKドキュメント「能登半島地震」のラストでも家族を亡くした方が「おめでとうなど無い」と仰っていました(昨日はテレビを点けたのは19時のニュースからでした)。

ただし、そうは言っても私など「こんなもの」であって「まかせてある」身。ありのままで、背伸びはしません。

 

よってあのキリストの誕生日辺りから正月三が日にかけての世の浮れっぱなしの時間は私の「慙愧」の機縁でもありました。

 

それでは、その「慙愧」という語ににちなんだ親鸞さんの和讃を一つ。

 

無慙無愧のこの身にて

 まことのこころはなけれども

 弥陀の回向の御名なれば

 功徳は十方にみちたまう

 

扨、石山寺のスタートは660年代の天智天皇の石切り場との伝承があります。

なるほど、石の上に堂宇建つ様が窺えます。

あの懸造りの本堂の下に「天智天皇の石切り場」なる砕石場の跡があります。

分析検証技術の向上もあってか天智天皇によって建立された奈良川原寺中金堂の礎石であることが判明したそう。

この石材の輸送ルートが瀬田川→淀川→大和川をさかのぼって飛鳥ということです。

「石山寺縁起絵巻」第四巻 承暦二年(1078)の本堂火災の場面に今ある切り出し途中の岩が描かれているのだそう⑥。

 

④⑤は瀬田の唐橋方向。

先日のバス遠足では叔父叔母たちは寺へは上がらず、川べりを歩いて唐橋往復して「楽しんできた」と。

さすが着眼点が違います。