昨日午前は島田市のご自宅でお内仏あげ経。
元は相良にいらした方々です。
おそらくこれが今年最後の法務でしょう。あとは境内と庫裏でのお仕事が少々。
何故にこの時期に・・・と思いつつお宅の仏間に入ると家族が勢ぞろい。正信偈が終わってからしばらく・・・。
73歳になるというご主人が「今年一番の仕合わせ」について嬉しそうに語り始めました。
それが11月に「曾孫が生まれたこと」。
それはこのうえない僥倖と、私もその羨ましき目出度さを讃えました。坊さんが他人を羨むことはイケないこと・・・と付け加えながら。
ああ、この機縁はきっと亡くなったお婆さんへの報告会なのだろうなぁ・・・と私もその良きご縁という不可思議の天晴れを思いました。
ちなみにこの「不可思議」「不思議」とは私が考えるに、「決まっていない、前もって決められていない」、「御縁」のようなイメージを持ちますがそれはたとえば、四苦八苦の四苦がすべて自身の意志でどうにかすることなどできないことの如くです。
しかし生老病死のうち老病死の3つに関しては人として決定している事と解します。また「生」においてはその命を授かることもそれからの生活も「決定」されたことではないと。
「命」もそれを得たあとの存在も色々な機縁に左右されるものだからですね。
その色々な機縁のことを「不思議」と言うのだと思います。
当流では九字の名号という阿弥陀如来の名(「南無阿弥陀仏」~六字名号~の脇に、また十字の名号「帰命尽十方無碍光如来」とともに・・・)をお内仏に掲げることがありますが、その九字とは「南無不可思議光如来」です。
計算づくでは絶対に説明しきれない「命」・・・「無量寿」とも。
また当流では死した後の事についても阿弥陀にそのままお任せします。
往生したあとスグに安楽国に参らせていただくことになりますがその道程もやはり不可思議なこと。
一言で言えば生老病死の「生の前 死の後」のことが単純理解不能の不思議な機縁であるということでしょうか。
まぁどちらの機縁も阿弥陀さんの差配するところで人の思考の領域ではないということですね。
私が若き頃からの好みの曲で(何度か拙ブログでも記しています)「天国への階段」 (Stairway to Heaven - Led Zeppelin)がありますが、その歌詞中のベストな私のお気に入りかつ不思議な部分が~勿論サビのギターソロは抜群ですが~
「It makes me wonder・・・」
「不思議・・・」そして
「There is a feeling I get when I look to the west」
「西方に感じる何か」
ですね。
浄土の英訳はHeavenでイイと思いますがこの「西の方角」
というところが私のこの曲の不可思議さを一層駆り立てます。やはり当然の如く西方浄土を思ってしまうのでした。
尚、歎異抄第一条の冒頭の詞が「弥陀の誓願 不思議にたすけられまゐらせて~」でした。
私がここに息をして吐いて・・・存在する事自体が不思議なことでした。「有ることが難しい」(有難し)とも。
扨、三井寺(先日)の金堂前に不思議な灯籠がありました。
それが「無名指燈篭」なる石灯籠。
掲示板の文言にありますが・・・
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小山昭治 (月曜日, 23 12月 2024 10:29)
「西方」は、毎朝、星がきれいに見えます。
その他の方角の星はぼんやりです。
冬の大三角形をはじめ、宇宙の広さを感じます。己の小ささも。
これからは、追加して「浄土」も考えますかね。
今井一光 (月曜日, 23 12月 2024 19:55)
ありがとうございます。
西方には日没後にもデカイ星が見えますね。
空気が澄み渡っています。
しかし私は天空といえば日没時のお日さま。
西方浄土を想うにはおあつらえ向きです。
つい「その名」を呟いてしまいます。