紀伊田沼の墓域 和歌山金龍寺 禁足祟りバチの発想

昨晩はNHK『新日本風土記「入らずの森 畏れの杜(もり)」』を視聴しました。

仏の教えに生きる私は毎度、明治の「廃仏毀釈」について仏教の衰微の始まりの如く、その愚策を思い起こすたびに呆れているのですが、何もその愚策は仏教だけではなく日本人の心に対してもネガティブに動いたのでした。

「国家神道」を旗印に各地の土俗的信仰というか地域の無数にあった神々を大きな神社に統合してしまったことです。

 

以前から地域の信仰は仏と神の両建てというのが大筋で、地域の「神」の喪失は―「仏」と微妙なバランスで歴史を形成していた(神仏習合)―今となって社会、日本人の精神性の劣化にボディーブローの如く効いてきた感がありますね。

 

一言で道徳意識の欠落の社会でしょうか。

若者たち政治家たちのSNSの駆使そして特殊詐欺の旺盛。

超がつくほどの優良企業(ノムラ証・三菱U銀)たちの根本たるウリ物である「信用」を大失墜させる破廉恥犯罪など以前では考えられないほどに日本人の心は劣悪化しているよう。

大企業の信用失墜は枚挙に暇がありません。

 

その要因がかつて身近な場にあった「畏怖」が喪失してしまったことでしょうか。

維新後の天皇中心の社会の構築を急ぎ神仏を完全分離させて国家神道として邁進させようとしたその咎が出現したかのように感じます。

 

畏怖とはおそれ・祟りのこと。

何かわからないものが私にさわるおそれがあるという少々自身不安にさせる雰囲気を言うと考えますが、その「不安」意識というものは自分を「操縦」していくうえで大切なアイテムではないでしょうか。

それは生きていくに必要だった「自信」が行き過ぎた強固な自我と変化してしまった「私」の、その後ろ髪を引いてくれるからです。

慎みを忘れた強い自信などは他を顧みることのない傲慢に陥りますから。

 

番組では今も各地に残る「禁足」「タブー」「おそれ」「バチ」を紹介していましたが、それぞれが「おそれおおい神的存在」を示唆していました。

特に興味深かったのは、近江の「新開」なる森。

 

遠景一見しただけでまず禁足の場であることが推測できる平地にポツンと残るボタ山。

私の経験上、そういう場には「何かある」ということで木々を分け入ること多々ありますが、まずそれはは古墳であり、また後世墓域にしたり神域にしたであろう鳥居、社を見受けます。

 

そちらの傍に古くから住まう「新海」姓の方がお話をされてい

ましたが元は「新開」姓でその森の名と同じだったのことですがいつの時か「新海」に変更したと。

その「新開」は勿論「しんかい」読みですが実は発祥時の名は「シガイ」であり、それは「死骸」・・・から。

新開と聞けば「新たに開拓」の方を意識させますのでびっくり仰天でした。

新海さんは元は「守(もり)」だったと仰っていました。

「守」とは「墓守」のことであり、そこは刑場となって「守」とは処刑人でもあったと。

私の興味をいよいよそそるお話でした。

 

その地の歴史を遡れば信長による近江侵攻による大量殺戮。

多くの死骸がこちらに集められたとも、こちらで処刑が行われたとも。

森の裏には石塔が建ち、「そこがもっとも怖い・・・」と新開の地主さん。

 

他にも福井の旧学校敷地にある禁足地も。

やはり大木のある敷地とその囲い。

石にさわっただけでも祟るという伝承があるそうですが、やはり信長による越前朝倉攻めでその地を蹂躙した信長が本能寺で死んだこと「バチがあたった」と地元では伝わっていると。

 

人は生まれながらにして「死」というものを背負って生かされているものですが、やはり何か「神仏に さわる」ことをやらかしたのだから「ああなったのだ(当然だ)」と後ろ指を指されるのは・・・ちょっと怖い・・・

 

「無碍の一道」を歩むと自負していてもその畏怖の想い、不可思議は大切なことと思った次第です。

 

扨、昨日は史跡研究会の小澤氏と意次せんべいの注文をいただいた店舗事務所に納品とご挨拶に伺いました。

その帰り際に、「和歌山に行って和歌山城と金龍寺にお参りしてきた」とその画像を拝見しました。

 

金龍寺とは紀伊の田沼家の墓域です。

いずれ和歌山をほっつき歩きたいとはおもいますが、伊勢道で天理に出ることは私のいつもの奈良行脚ですが「そこからがまた長い・・・」と。

晴れていれば最高でしょうね。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 11 12月 2024 09:23)

    久しぶりに聞きました。「バチが当たる」。同じように「お天道様が見ている」
    反面、毎日をきつい仕事をしているとそれどころではなくなる。・・・それもわかります。
    昔は今ほど競争社会ではなかったから、のんびり仕事が出来た。
    都会ではなおさら差が出来ています。田舎でももちろん。結果、ゆがみがあちこち出来ています。相手より上に、相手より豊に、相手よりいい暮らしを。テレビで「ポツンと一軒家」が人気が出るわけです。そんなのんびりした暮らしを憧れます。
    豊かな暮らしとは、競争して勝つこと。いつかそんな暮らしでいいのかと考えます。
    情けない世の中です。
    それでも ながされるまま、生かされるまま行かざるを得ません。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 11 12月 2024 18:56)

    ありがとうございます。
    ものごとのすべてが勝ちと負けで決まるとなると私など毎度「負け組」かも。
    それでいて今私は生きています。
    よって私のその手の価値は「生きていることが勝ち」。
    いずれ「負け」が訪れることは分かっていますが
    「今生きている」のは私ですからね。
    健康に生きないと辛苦は勿論、楽しみも味わえませんから。

    世間の今の悪辣さの根本はカネ本意なのでしょうね。
    他者の財物を奪い取ってでも自身がそれを蓄えたい、ラクをしたい
    という短絡。
    いくら蓄えたとしても財物は「向こう岸」に持っていけないのに。
    のんびりとあるがままに、「生かされている私」を知るべきなのでしょうね。

    私もできるだけ健康に留意してこれからも色々見てみたい・・・
    ということはやはり健康こそが勝ちか・・・? いよいよ勝ちに行きたいものです。