叔父たちに本堂床材について伺う 六角堂の親鸞堂 

一日中雨。天候不順が続きますね。

10月といえば晴れが続くイメージでしたが・・・まったく梅雨空の如くで・・・やりたい外仕事がどっさり残っていますのでコレは焦ります。

一昨日はブラジルの自宅に帰る叔父夫婦と昼食後に分かれたのでしたが僧籍の除却もありましたが、心に秘めた何かがあったような気がします。

そう簡単には行ったり来たりができない距離であり「もしかすると・・・」といった気持ちもあっのでしょうね。

「またね~」と言うと「今度はそちらがサンパウロへ来て」

私は苦笑いするだけ。

日用品を買いに出るのに50㎞車で・・・想像を絶するスケールです。名古屋往復が平チャラのワケです。

 

その雰囲気を察していた兄弟たちが・・・やはり私の叔父叔母になります・・・2週間程前に墓参と本堂にお参りのために集まりました。

 

私はこの際、以前から疑問のあった本堂床下のほぞ穴について知っていたどうかを聞いてみました。

数年前に田沼関係の見学者多数に対応するために照明器具を設置していました。

実はその相良城解体後の中古材として推測できる木材について父も祖父もその件、私に語ったことはありませんでした。

まぁ父も祖父も本堂の内部についての詳細は熟知していても床下のことまでは知らないだろうと思いましたが(二人とも床下に入って仕事をするような人ではありませんでした)。

 

そこで私より古い時代、父や祖父健在の頃、その件知らされたことがあったか、そしてそれぞれ床下に潜る遊びの中でそれに気づいていたかについて聞いてみたのでした。

すると父も祖父も叔父叔母たちも「知らない」「気づかなかった」でした。

 

予想通りのなるほど。

松平定信のお触れの通りに大澤寺の建設を遂行すれば相良城破却材の使用は咎をうけることになります。

ところが何と言っても建築費については幕府系の資金が入っていることは違いないところです。

当時の拙寺ご門徒の件数では絶対に不可能な額だからですね。

それは現在でもムリと思えるものです。

現在の価格で6~7億円との指摘がありますから1戸あたり600~700万円の寄進依頼ということになります。

その時代の経済状況から考えてもそれをやり遂げることなど天と地がひっくり返っても無理な話です。

 

そこに幕府からの資金と後押しがあり材料の調達が容易く行われたというのは三代目祐傳の父(成瀬藤蔵正義)が三方ヶ原で戦死したからです。

江戸期に東照宮(徳川家康)の最大の危機といわれる三方ヶ原の戦で死したという事実は畏敬の念で讃えられたのでした。

まぁそのことだけ、三方ヶ原戦死者の菩提を弔う寺という旗印だけで江戸時代を安楽に過ごさせていただいたというのが拙寺だったということ。

 

その大澤寺建築材は以前相良城建築の際に余分に確保した、いわゆる余剰材の使用があったのでしたが、同時期にたまたま有り余る相良城廃却材も溢れ出てきて、それをご法度ながらどこかに残そうという意図が働いたということでしょう。

 

それは本堂内部の外陣と内陣を隔てる結界の柵にさりげなく相良城で使用されていた旗差し―竹竿―が転用されているのと同じです。真宗寺院にその手の結界柵の例はありませんので。

こっそり遺そうという意図が働いたかと。

厳密には色々な場所を迂回して拙寺の材として使用されたのでしょうね。近すぎて直接搬入したらモロバレですからね。

 

ということであの明らかに「大型建築物の梁などの中古材」を相良城破却材の証として皆さんに見ていただくようになったのは2019年頃ということになります。

それまでずっと伝承のみだったということですね。

 

扨、本日も六角堂(昨日)。

そちらへのお参りといえばまずは親鸞さんのところへ・・・と門を入って右方向に。

そちらには親鸞さんの銅像が立っていますが、今回気づいたのは親鸞堂の存在です。

以前は気づきませんでしたから新しく建てられたのでしょう。看板にもその存在についての記述はありません。

 

100日の参籠に観音さんの夢告。

こちらのご本尊は如意輪観音ですから、よりキラキラの女性を連想してしまいます。親鸞さんも隅に置けないねぇ。