昨日午前、お内仏開扉式がありましたがそれは新築のお宅の内覧会のようなものでした。
色々な新しくて機能的な品々に驚かされながら興味津々で質問をぶつける私がいました。
自分の希望、イイもの、利便性を追求したいと深く思えば思うほど出費は嵩むというのが「やはり」と思うところで、結局は妥協の連続になるようです。
当初施主家では流行りの太陽光発電を屋根上に設置することを検討していたそうですが諦めたそうです。勿論予算オーバーの件。
あと蓄電システムも・・・上を向いて理想を追いかけるのは楽しいことですがキリがありませんからね。
私が一番に驚いたのは電気自動車用の給電用でしょうが「将来の為に」と設計士側から推奨された200Vのコンセントです。
圧巻の配慮ですが私はエンジン世代ですから電動は肌に合いませんからね。というか維持コストが突出するような気がして。
扨、人とは色々な課題を抱えて日々生活しているのですが、その解法を潜在的に抱きつつ忘れて何かしら動いている中、ふとしたことからその目的達成のための示唆らしきものを感じたりします。
どこかでも記した「ユングの共時性」というか偶然というかこじつけというかそれを強く主張すれば時にインチキ宗教、もっと強く言えばオカルト、自然に考えて「不思議」という感じの事象。人によって感じ方に違いはあるでしょうが私はとかくいろいろ「こじつける」のが好きですね。
それは「南無阿弥陀仏」で生かされていることを意識しているからかも知れません(「南無」=「おまかせする」でつまるところすべての事象が阿弥陀の提示であると心得るから)。
私は何年か前に片付けた土蔵内の古文書整理以来、悪いモノを吸い込んだか肺への負担が祟ってホコリや微粒子には滅法弱くなりました。
夜中に咳が出だすと眠れなくなることもありします。
仕事上咳や喉の炎症には気をつかう生活を送りつつ「何とか十分なケアを」と考えていますが、そのことを忘れて放っつき歩いている時、談山神社でその「木と案内」を見たわけです。
「そうだ花梨を育てよう・・・」などと閃いたわけですが、それを奥方に伝えれば「それならカリン入りの飴でも舐めろ」と。
まぁ樹木好きの私は秋に実をつけるというその種子を頂戴しにそちらへ再訪したくなりました。育てることは楽しくまたその果実の成りを頂くことは格別です。
勿論豆大福も。
そして談山神社の宝物に多武峰曼荼羅ありますが、そちらにあの「天誅」なる語を拝見しました。
身勝手とも思える殺人正当を主張する言葉でしょうか。
「勝てば官軍」と同じような言葉のようにもとれますね。
まぁ、その天に恨みを買ったのでは・・・と思わせられるような出来事「ひょっとして・・・そうだ」と思わせられるような不思議で奇怪その後に大いなるその人の悪辣が発覚するきっかけとでもいうべきことが起こりましたね。
悪いことをしたら「罰が当たる」とは子供の頃から昔から言い聞かされていたことでした。
またその逆、酷い目にあったということはそれを罰として日ごろの我が身の悪き心を懺悔せよ・・・ということ?
画像⑧は入鹿の首がはねられている図ですが、死んでしまったら反省というものなどできませんね。
天誅とは反省する時間の利益が与えられないということなのでしょうか。
⑨画像が私が昨日感心した200Vのコンセント。
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