民間所有地と民家に囲まれた竹谷松平氏の竹谷城 

智曜日(勝手な造語)、やはり午前は法要。

行僧原の先ずご自宅ご仏前にご挨拶してから墓参し本堂での本法要という段取り。

原の墓地の上空は薄曇り、テレビで大騒ぎするほどの暑さは感じませんでした。拙寺境内とは違って蝉の声は遠く、鶯の声が長閑に響いていました。

 

「時間をかけてゆっくり・・・」ペース。法要終了後、庫裏で掛け時計に目をやれば13時前になっていました。

庫裏の居間の時計は気温を示していますが29℃。

その部屋には当然の如くエアコンを稼働させていますが設定は25℃にしても、指示通りの温度にはなりません。

 

好天が続く時の仕事はいくらでもありますが、直近の課題、本堂正面の北側障子2枚の張替えです。そけらは破けまくってボロ寺の有様を醸し出していますので。参拝者の子たちとネコによるものですからどちらも文句は言えません。

まぁネコならばまだしも、子供が面白がってそれを破く様を目の当たりにするのは少々心臓に悪い。

我が子ならぶん殴ってそのやってはイケない事を知らしめるワケですが、怒りというかどちらかといえば悲しい感覚を堪え、自ら言い聞かせます。「そろそろ張り替えろ」とのお達しだ・・・

 

ということで一番に酷いその2枚を取り外して水洗いしながら古い紙を除去。この天気ですからスグに乾燥してくれますので次の行程に入りやすい。桟の破損個所を補強するなどして25日の取材までにそれを仕上げようと思っています。

尚、その取材は例によって田沼関連です。

 

扨、蒲郡市内で蒲形城に続き、あの城郭大系本編で記されている城、竹谷(たけのや)城があります。

 

竹谷城 蒲郡市竹谷町 天文十七年(1548) 松平守家

「竹谷松平は氏は、信光の長男、守家を始祖とし、天文十七年竹谷の住人牧山喜三郎から七百貫の土地を買って竹谷に築城したという(天桂院文書)。

永禄三年(1560)五月の桶狭間の合戦以後、三河の諸将は今川氏と別れ、徳川家康に従った。竹谷松平氏も同様でこのために今川に人質として出していた四代清善の女(むすめ)は他の諸将の人質とともに吉田城外龍拈寺口で殺害されている。

 

清善はこののち元亀三年(1572)から遠江宇津山城を守り、孫の家清は徳川氏の関東移封後、武蔵国八幡山一万石に移封、関ケ原の役を経て慶長六年(1601)には三河吉田三万石の城主となったが、その子忠清が同年十七年に没し、無嗣除封となった。

しかし、同年、弟清昌に西ノ郡五千石が与えられ、帝鑑の間詰め・交代寄合として代々居住したのち明治維新を迎えた。

現在、城址一帯はみかん畑となり、本郭・二の曲輪が残るが形状は台地である。当時の曲輪もこの二曲輪からなり、居館は他の場所に置かれていたいたものであろう。

創築当時においては土塁を巡らし、小規模ながら建物もあったと推察され、当時の面積は現在でも残されているが、後世に土塁は壊され井戸の場所も明らかではない。」

 

竹谷城の目標は蒲郡市立塩津中学校。そちらの少々東側に②のような丘が。そちらが竹谷城址になります(場所はこちら)。

③ミカン畑側から回り込んで畑を突っ切り竹藪の手前に石標が。そこからさらに南側の斜面を降りると⑤⑥⑦。どうやら私は正攻法でない逆から上がってしまったようです。

 

しかしその「正攻法」は民家の路地の奥という感じで、わかりにくいものがあります。

 

城郭大系には土塁は失われているといった記述がありますが、南西側には空堀土塁と切岸を推定できる遺構が見受けられました。ただしこちらは民家の裏側ですので了承を得てから入らないと反則になります。

勿論、私はその無理な要望について民家の奥様に快諾いただいたことを覚えています。

まぁ何時警察を呼ばれたとしても仕方ない人相、恰好とは思いますが。

できるだけ怪しさを醸しださないよう明るく接することを心がけています。

 

⑨から三河湾方面を。イオン蒲郡店が見えます。