昨日もいいお天気。梅雨など無くて結構。
朝から御門徒様宅にお邪魔して御一同と仏間で正信偈。
帰宅してから役場の住民課へ。
数日前に東京の方よりメールで問い合わせがあり、それには当家の除籍謄本が添付してありました。
当家11代目の祐曜の二女の嫁ぎ先の子孫からでしたが、そもそもその謄本のその二女の名には斜線があり赤丸があって別の名が。過去帳は「きく」で赤字で「きし」と改めてありました。
意味不明に陥りましたが、単純に先方のただの誤りだろうと叔父に問い合わせると「まぁこっちで除籍謄本確認すれば・・・」という結論でした。
その書面には文政七年生まれの祐曜に妻滝江(清水専念寺曽我家から)が天保三年生まれ。
文政三年生まれで祐曜の姉、あの波さんの名まで記されているもので、私も一つ取っておこうという気持ちがありました。
カウンターで、もしかしてそれ以前のものは「ないよね~」と聞けば「コレが一番古いモノです」と。
当たり前のこと、野暮なことを・・・。
尚、この謄本は「直系の者」のみしか取れませんね。
きくさんが直系となる子孫ならばOKですが、嫁として転出された方はその実家の直系の私でもムリ。
私にはこれ以上の探索はできません。
また、古い謄本を出力してもらう手数料も結構お高く750円也。
その後、居間で久々に豪快な転びをやらかしました。
雑に配線されているパソコンやら扇風機のコードに躓いたのでしたが、両手で持っていた書類箱は投げ出すもパソコンデスクの上に、体は宙を飛んでのその時間は記憶から飛んでいましたが、気がつけば扇風機の乗っていたカメラ用の大き目プラケースの上に座るように着地していました。
壊したものもまた怪我もなく、一件落着の事案でしたが一部始終を目撃していたネコ共はその大音響に一目散、奥方は台所から「何やってんだか・・・」の呆れ声。
そして奥方は「6月だからね~」。
コレは先般からやらかし、うっかりのおバカミス連発から「6月はどうもいけない!!」などとオオタニサンの6月絶好調のニュースに対して私のその凡ミスと不運連続についてボヤいていたからです。
早くこの時節から脱したい。
扨、昨日の本光寺の深溝松平の墓域の続き。
また一つ結界のある墓石があります。
このカタチは当家が島原藩主となったあたりから踏襲するものでしょうね。
以前、結城松平家の松平直矩(なおのり)をモデルにした「引っ越し大名」という映画がありましたが、彼は何故か7回の国替えによって経済困窮に陥ったいわゆる引っ越し貧乏大名。
大名行列もおカネがかかりますが、国替えはより莫大な費用が必要になりますね。
こちら深溝松平11代忠恕(ただひろ)の廟ですが、彼の国替え経費が嵩んだ貧乏度合いに加えた困窮と追い詰められた心境はやはり数ある大名中ベストにはいるほどにツイてなかった方。
財政難=年貢引き上げという構図はどちらの世界でも同様のことでそうなれば反発(一揆-兄忠祇 ただまさ 時代ー の籾摺騒動・・・)が起こる事も必至。一件落着後藩中は大洪水に見舞われ、借金を重ねてたところにさらに大洪水。
そして挙句の果てに藩内大火災と天変地異に翻弄されつづけた人(下野宇都宮藩時代)。
そもそも深溝松平家は肥前島原藩にあって訳あって宇都宮にいたわけですがその災難続きから逃れられると喜んだかは知りませんが、旧領島原に移封を命じられます。安永三1774年です。
きっとこちらでも引っ越しに経費が膨らんだとは思いますが、忠恕がその災難を過去の事と忘れつつあったころ寛政四1792年に日本史上大層な火山災害として記録に残る「島原大変(普賢岳大崩落)」に見舞われます。
その発生から4週間も経たないうちに彼は亡くなっていますが きっと「なんで自分の時ばかり(酷い天変地異が)・・・ツイてない」と失意と空しさに見舞われたことでしょう。生きていく気力も失われるでしょう。
被災地に対して「再建」への希望を・・・などとよく言われますが、一度の災害で失意心身喪失により命を落としてしまう例はよく聞きますからね。
それが幾度も幾度も重ねて襲ってきたら・・・
希望も未来も描くことなどできないでしょうね。
忠恕はそれでも頑張った、人生五十年。
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