二村氏「夏目氏と明善寺」 知事選に隠れた茶業衰退

昨日は挿木で成長したハイビスカスたちの植替えと途中で放置されたままになっていた松の剪定を。

松のトップ部分はこれまた脚立のトップに上がっての仕事になりますが、それは一応反則。そして両手を使っての仕事はさすがに度胸が要ります。

 

毎度のこととはいえ、途中で相当嫌気がさして愈々ブン投げてしまおうかとも思う年頃。

それでも最後は上部を大雑把に剪定、いやカットして仕事を終えました。

奥方はそんな私の松管理を、アレ(息子)は「絶対にやらない」いや「やるわけがナイ」と断言。

仕舞にはチェーンソーを持ち出して「根元からだろうよ・・・」の憎まれ口。

 

死した後(あとに残れるものは)勝手自由というのは了解していますが、心残りは案外たくさんありますね。世を去った者のいろいろを考えていたら、大変でしょうから致し方はないでしょうが。やはり生きている方が大事ですからね。

また同じ趣味を強制はできないですね。

ハイビスカスもブーゲンも南洋系の植物たち、配慮を欠けばその命すべてが消え去ります。それを考えると残念無念。

自分が死ぬこととは・・・そういうことか。

 

死すると言えば昨日画像で示しましたよう、当地の茶産業は衰退の一途。一部既に「死んで」います。

それは大手の茶メーカーの叩き売りにも似た価格となる3番茶以降の茶葉で食い繋いでいる農家もありますが、あの原の茶畑の各惨状を目にすれば、素人でもその無慈悲は察知できるところでしょう。

 

ところが先般の静岡県知事選での争点はボケまくり。お茶農家救済の声など聞こえてきません。

双方ともリニア、リニアと○○の一つ覚えの如くの連呼。

将来の「水争い」に及ぶことの危惧があるそれ、その水という生活に肝心なものを「このままでは静岡県民が日本国中から恨まれる」なる理由で「早期解決」したいの主張は、私からすれば問題の根本を見誤っているように感じました。

 

何故にして、リニア関係者とその果実を期待している人たちに対してゴマをすらねばならないのか。

静岡県民の私はリニアなんて知ったこっちゃない・・・です。

まずは完成したとしても乗る人不在の大赤字路線になるのでしょうから。それも国民にツケが廻るのでしょう。

 

そのリニア・リニアの連呼の頃、牧之原台地、菊川のご門徒さんの法要があり生産されたばかりの新茶~あの菊川の茶娘がプリントされたパッケージ~をいただきました。

まだまだお茶の生産に希望があった頃、逝去された故人は周辺茶畑を購入し続けて大きくその業を広げたといいます。

 

ところがご主人が病によって倒れ、なお最近の茶葉価格下落傾向に陥り継続困難の現状について奥さんが吐露されていました。

それでもご主人の妹さんたち80歳近い皆さんのヘルプによって今年は何とか新茶を摘むことはできたとのことでした。

乗用摘採機の有無を聞けば維持管理に費用がかかるのでその使用はナシ。本体は普通自動車一台分。替え刃やらメンテ管理の費用が膨大になるといいます。

 

畝を跨がせて両脇二人で摘採するタイプの茶摘み機を使用する

そうですが、あと一人、摘採袋の持ち手がいれば「乗用がなくて

もOKだよ~」と。

とはいえ、それは古い農業のカタチ。

三人工の人件費を考えればどうなんだろう・・・と感じます。

皆さん殆ど親類のボランティア感覚だからこそできることでしょうね。

息子さんがいますが、実家農家は継がないと。

サラリーマンで外から確実におカネを稼ぐこと、それ以外考えられないのでしょうね。

 

今年はこれまた茶葉の価格が酷く一番茶は何とか出せたが「ニ番茶の価格が怖い」と。

「400円(㎏)割れたら捨てた方がマシ」といいます。価格は納入後しばらくして決まりますのでどうにもならないでしょうね。

まずはその価格を割っていることは確実。

肥料代、農薬代で大赤字になっている模様。

 

茶農家の高齢化と人手不足に後継者不在そして追い打ちが茶葉価格低迷。

これだけ値上げ値上げと騒がしい世の中で何故に茶農家だけがイジメられるのか。

静岡の農といえばやはりお茶でしょうよ。

その惨状について触れず、リニア業界への忖度の弁、腹が立つ。

見殺しにしているようにしか見えません。現場の窮状を知らないのでしょう。本当の死活問題を。

 

扨、画像は三河地区歴史冊子「さんえん」のNo.85より。

厳密にその発行者を記せば「三遠地方民族と歴史研究会」ですが、その研究会の二村順二氏による論文の掲載がありました。

タイトルが「夏目氏と明善寺」です。

 

そのタイトルといえば拙ブログで何度か記していましたので興味深くその内容を拝見すれば、何と拙寺の名まで。

有難くも唐突すぎで仰天させられました。

 

私の明善寺といえば住職を亡くされた坊守さん、息子さん、岡崎の寺に嫁に出た娘さんと僅かな時間ながらお付き合いをさせていただいたことの思い出。

岡崎法蔵寺の成瀬藤蔵正義の墓の発見に至ったのもこの明善寺からでした。

 

その後のご無沙汰失礼について日々もやもや感が滞留するばかり。 

堂内阿弥陀さんの前で今一度経典拝読をしたいものです。