分陀利華 高原の陸地には 蓮華を生ぜず

先日、ご門徒さんから「そろそろ父がヤバい」と。

以前は拙寺バス遠足にも参加いただいている方で、よく存じ上げていますが、高齢にも関わらず(90代)愛車の軽トラでいろいろ出没、拙寺にも気軽にひょいと訪れることしばしばでした。

最近はお顔を拝見することが無くなったのは例の「免許証返上」を行ったからです。

 

その方の娘さんはその父親から車を取り上げた事によるやる気と筋力の衰えを惹起させたことについて悔いていました。

私は免許証の返上流行りの世間の流れは大反対。

本人の意志に反して免許証を取り上げるというのが今の社会の流れではありますが、それによって健康長寿までも返上することになるということを皆さんご理解いただけないようで。

 

それを言うと奥方は「自分の免許証保持」についてそれをただ家族に肯定させるための偽りの言葉であろう・・などと一笑に付しますがそれは大違いです。

私は年配者の起こす交通事故についてことさら例のアクセルとブレーキの踏み間違い等あげつらい、あたかも心身機能の老化とその事故を結び付けて年配者に自動車を運転させることはけしからんということ、いかにも短絡的であると。

 

では事故を起こして他人様を傷つけたらどうするの?と反論されてしまいました。

それはどなたであっても同じこと、当然事故は御免ですし避けるべきものです。

しかし、ミスを犯すということは人間だからどうしようもないこと。よってそのまさかの坂の痛みを補填するために保険というシステムが社会の潤滑油として機能しているのだと。

それで世の中が回っているのですから。

 

そしてそもそも、事故を起こすことは、年配者だけではないということ。

いたずらに右に倣えでお爺お婆から車を奪うことなかれ。

返納は個人の意思に任せるべき。

 

私の知りうる限り、返納した年配者は、その途端に体力、耐力、精神力・・・心身の急激な下り坂の躰の発現について見聞きしています。

どなたでもタイミング次第では事故に遭遇するものです。

嫌悪すべきことですが仕方がありません。

ある意味、割り切りというものが必要かも知れません。

 

扨、画像は先日の白州遠足の帰り途。

私が運転すれば「躑躅ケ崎」方面と言うも、それに賛同する方は不在、どなたかの運転でこちらにて休憩することになりました。

清泉寮でアイスクリームというものです。

私は一口だけ奥方のそれをいただきましたがそれだけで結構。

 

それよりこの地で私が想ったのは念仏者「分陀利華」 (白蓮華)のこと。

そしてその尊い蓮華の育つ場所についての件を。

 

 「高原の陸地(ろくじ)には    蓮華を生ぜず

           卑湿の淤泥  いまし蓮華を生ず」

 

蓮華の五徳の一です。

こういった爽やかで清々しい場所に念仏は育たないのだな・・・

などと。

 

雑多でドロドロ、人々の中にそれは生まれるのでしょうね。

ちょっとばかし極論でしょうか。