聚楽第の碑直近 名和長年討死の地

昨日、本堂の裏側で柱の最下部からシロアリの羽ばたきの図を目の当たりにして呆然。

来客中でしたのでスグに対応できませんでしたことが口惜しい。その後、退治グッズを持って現場に駆け付けると既に「散会」したあと。

根元には薬剤を撒いておきましたが気休めでしょうね。

驚かれたのは彼らの発生か早かったこと。

いつもの感覚からすれば「5月5日」以降なのですが・・・

4月末に羽アリの浮遊を視たのは初めてのこと。

まったく気候の変異は異常。

ぼちぼち床下に生石灰を撒いていこうか・・・最近それをしていなかったが故に発生したに違いありませんので。

 

扨、昨日は大山町鈑戸の地について記しましたが、伯耆の国とい

えば鳥取県民ならどなたでも知っている名和長年という人があります。

元弘の乱(太平記)で後醍醐天皇は笠置山(こちらも)で捕縛され、謀反人として隠岐に流されますがそちらからの脱出行、船上山での挙兵そして都へ復帰してからさらに鎌倉へ、北条氏を滅亡させました。名和長年はその功によって伯耆守に任じられます。

しかしその後後醍醐天皇は足利尊氏との関係が悪化して吉野に逃げ南北朝の混乱期に突入するわけで名和長年はじめ一統は後醍醐天皇方として奮戦しますが彼は討死とあいなります。

 

京都在住の頃の息子の寮が聚楽第址の例の碑の近くにあってその碑のある信号機のある四つ角がランドマークになっていましたが、その角を右折して殆どスグの場所、民家の間に挟まれて小さな児童公園があります。

そちらに「贈正一位名和長年公殉節之所」なる石碑が建っています。彼の討死の地との伝承です。

 

明治以降、足利尊氏が逆賊と貶められ、逆に高評価に奉られたのがこの名和長年でした。

名和一統は当初は伯耆でも地頭だったといいますが、伯耆守となって短期間ながら天皇復帰の功労者として「新政」の中枢にまで上ります。

その際、天皇から下賜されたのがあの帆掛け船の紋章。

当然にまた彼らが朝鮮半島から日本海の海運にもともと従事していて、その財力によってかなりの勢力を保っていたかと推測できます。

 

①聚楽第石標のある四つ角をハローワーク側から見た図。右側奥に木々の見える場所がその公園。