鈑戸(たたらど)の両墓制 鳥取県大山町 NHK番組から

昨日は鶯餅の発祥について記しましたが古来伝承に鶯王なる名が登場するようで、それに因んだ地があります

以前拙ブログで仁徳天皇の別名「大鷦鷯天皇」とあるように 

鷯=ミソサザイなど、鳥は鳥でも怪鳥巨鳥ではなくごく小さなカワイイ鳥の類の名をつけていますから、その鶯王も「ふ~ん」と唸らされるところです。

強そうよりも賢そう美しい・・・がその名の選択する際のウェイトが強かったのでしょう。

信長の自称「第六天魔王」などのマヌケな名とは違いました。

 

鳥取県松江市法吉町(ほっきちょう)に法吉神社なる社がありますが、その名称が鶯の鳴き声に由来するという説、鳥取の旧国名が「伯耆」=「ほうき」でその名称自体がその音であるというもの。なるほど、いわれてみればそれで納得。

 

また伝説の一つにヤマタノオロチから喰われまいと山に逃げこんだ娘が「母来ませ~」と祈ったその「母来」から国名となったともありますが、ウグイスの鳴き声の方が面白い・・・。

 

前述の鶯王の件、その人は孝霊天皇の息子だといいます。

まぁその名は天皇の名もそうですが伝説の域を出ません・・・まぁそれはそれとして。

では何故にして天皇や天皇の息子がこの地にその伝承を残したか、想像したくなります。

孝霊天皇・・・高麗天皇・・・などの変化を考慮すると明らかに渡来系の示唆を感じますね。

 

古来からその渡来系の人々の文化移入と混血が無ければこの国の形成と成長はなかったというのは誰しもが認めるところですが鳥取県西伯郡(伯耆の国の西)大山町には高麗村という名がありました。まぁ日本の近江以西にはその手の渡来人をイメージする地がありました。

 

何故にこちら大山に・・・というところですが日本海側にあるということが重大な地勢。

朝鮮半島からの窓口、物流の拠点だったではないかとの連想です。

それは青銅器から鉄へ・・・という過渡期、勢力争い混沌の時、鉄を得た者こそが世を統べるというのは必定です。

農耕に使用すれば効率アップ、武器としても超ハイテク兵器であったわけですね。世の中を激変させるような・・・

 

特にその大山町にはその鉄製品加工を推することができる鈑戸なる地があります。

ついついこじつけたくなりますが「鈩」(たたら)とは一言で鉄材のこと。

その鉄材が流入する門戸でありこちら周辺で渡来人が技術を引っ提げて渡来、加工所を作って一大鉄製品流通の拠点になっていたと。

今はその面影を窺うことができませんがそれこそが歴史の移り変わりです。

 

扨、昨日は秀長の供養塔の件を記しました。

遺骸遺骨を実際に納める墓を本墓とすればその供養塔形式(遺物なし)のダブルあるいはそれ以上の複数の墓塔は信長など超有名人に多いものです。

その人の名を資源と目論む例もあったりするでしょうが、純粋な畏敬の念を表す場としてそのお気軽な場所にある供養塔は今風に言えばコンビニエンス。

 

拙ブログでは「埋め墓・詣り墓」(またはこちら)そして参考までに奈良の受取地蔵(またはこちら こちらも)など土葬墓繁盛時代の遺構と民の考え方を記してきました。

土葬墓とは別に故人の親族一同手を合わせる場として供養墓を建てるという風習の地域がありました。

その供養墓とは地域住民すべての縁者故人への思いを代表する墓塔ですね。

 

よって実際に故人を埋葬した場に足を運ぶことはなかったのでした。そちらを禁忌として足を踏み入れないよう伝承する倣いもあったようです。

 

以前その「鈑戸の両墓制」がサラっと登場したNHKの番組がありました。

「にっぽん縦断こころ旅」の鳥取編、2014年10月10日に放送されたものです。

画像は番組内のカットで、番組キャプチャーお借りしました。

私もいつもは流し見している番組ではありますが鳥取大山の両墓と聞いて、その件わくわくしながら録画したものです。

 

またこちらで面白いと思ったのは彼岸と此岸の連想。

鈑戸川を隔てた川向うの集落に供養墓(⑤⑥) 対岸に埋め墓というカタチ。

ただし、その供養墓にはよく聞くそれとは違って故人の爪・髪などを入れること。

今は橋が架かっていて気軽にこの埋め墓に来ることはできるようですが・・・

 

埋葬墓は画像ではそれを感じられませんが、基本的に埋葬場は河原であり納めた棺の上に河原石を積み上げるというもので墓標はナシ。よって縁者しかわからない。時間とともに消えていく・・・そんな感じのものだったよう。

時間の経過で棺は石の重さで崩れ、時に川の流れによって遺体は自然に帰っていくというものですね。

 

良き景色で感動しました。 

そいえば親鸞さんも「賀茂川に流せ」と言っていました。