本堂の中と外では体感温度、大違い。
この日は法要後にご納骨があり、施主が石屋さんとはコンタクトしてはいたものの大幅な遅延がありました。
「堂内でしばらく待ちましょう」と一旦外に出た皆さんを本堂内での待機を勧め、堂内に戻っていただきましたがスグに皆さんは外へ出てきてしまいました。
日の下にいた方が断然の心地良さだったからです。
庫裏の中も本当に寒い。よって午後は外で植栽遊び。テラスの植物たちをすべて下ろしました。
早朝温度低下(8~9℃)の予想がありますので、少々気の毒ではありますが。
扨、円光院といえば・・・といえるほどのその象徴的ともいえる人がいます。
三条の方・・・「円光院殿梅岑大禅定尼」からです。よって三条夫人の菩提寺。
その方といばその名の通り京都公家の三条家から信玄の継室として府中へ入りました。
左大臣三条公頼の次女です。
姉が細川晴元室、妹の如春尼は我らが本願寺顕如の妻で姉妹の夫たちの顔ぶれは錚々たるもの。
その顕如と如春尼の子供達が今の東西本願寺に分かれた元になっています。
要は三条の方は本願寺の親戚筋にあたる方ですね。
どちらの家でもそうですが奥方の思いや主張は家の方向性を決めるものです。
時系列を記せば三条夫人は元亀元年(1570)に亡くなります。
そのあとの数か月後、その年から天正八年(1580)年の間が石山合戦になりますが、三条夫人の妹(如春尼)の「家」 (本願寺)が信長の手によって窮している様を見た、信玄が甲府を発つ尻を押したというところ、大いに推測するところです。
勿論、顕如からの救援の依頼もありますが三条の方への思いが増幅したことでしょう。
結果的にその上洛劇(元亀三年十二月の三方ヶ原戦のあと明けてしばらく)が信玄の命取りになったのですが。
よって各説ありますが、信玄の西上は「上洛」ということで。
三条の方と如春尼を比較してしまいますが、ともに戦国の世を行き繋いだ女、母ではありますが三条の方にとってはあまりにも辛い事が多かったよう感じます。
顕如と信玄も「家」という視点から見ても相当なる違いが出現してしまいました。
ということで円光院には三条夫人の墓域が本堂の裏方にあります。
そちらの宝篋印塔は幾度か組み直され、位置も変えられているそうですが、各欠損に折れの跡が痛々しい。
塔身四面に「大日」の文字があるというのが特筆と。
⑨と⑫図、微かに判ります。
大日といえば真言系をイメージしますが、五輪塔も宝篋印塔もそもそもその系統として大日如来の提示は不思議なことではありません。
ただし四面にそれを文字として刻むという類例を知りません。
⑭墓域前には別の宝篋印塔や⑮累代僧籍にあったお寺関係者でしょう、その方々の墓たちが。
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