一日中雨。
寒さは控えめでしたが外仕事は不可です。
また、あい変わらず頭痛が残っていましたので好都合とばかりにぐうたらした一日を過ごしました。
それにしても墓・寺・城をぶらつく時には不調だ何だのと弱音を吐くことはありませんから、家に籠ることによってさらに不調をもたらすが如く。
だから人は「外に出る」ことに意義を見つけなくてはならないのでしょう。
昨日は次の次の大河ドラマの発表がありました。
さすがに戦国時代のお話になるかと、少しワクワクしていましたがその報道を見て、声は小さくなってしまいました。
一応直接のスポットは初めてとはいうものの食指が動きません。
視聴率低下傾向にあってあまりリスクを取りたくないというところなのでしょう。
扨、昨日の続き。
伊吹山の南麓。
彼の地が古くからの京極家上平寺城と城下町ですね。
信長の手で蹂躙されたか、今はその城下の面影は感じられませんがその城と城下町の関係の存在こそ後世の各地その形態の発展に繋がったのか・・・
この付近の地名を昨日のブログで記したもの含めて眺めると拙ブログの「江州佐々木南北諸士帳」の坂田郡① ②に出てきます。この地域には京極家家臣団の城塞、屋敷が林立し町人商人たちの賑わいが感じられるのです。
いつもの如く城郭大系から転記、尚現在は米原市です。
上平寺城 坂田郡伊吹町弥高
京極高清 永正年間(1504~21)
別名 1 桐ケ城 2 霧ケ城 3 刈安の尾城 4 上平城
標高 666 比高380
上平寺城は伊吹山の南側の山腹、弥高山の刈安尾の尾根にある。
永正年間に京極高清によって築かれたもので、近江と美濃をにらむ位置にあった。
高清の築城以前にも、明徳四(1393)に京極政経が弥高から出陣していることが伝えられているので、何らかの基地があったものと考えられる。
また、上平寺という名は、伊吹山四か寺の一つ上平寺(上平護国寺)の寺域にあることに由来している。大永三(1523)には京極氏の内紛によって焼失した。
上平寺城の古図によれば、刈安尾の本丸、南に少し下った台地に二の丸、谷を隔てて中三之丸・小屋敷、ここから七曲りを山麓に下って台地に京極氏の居館(御屋形)があり、南へ城下が開け、諸士屋敷・町屋敷・市屋店屋が存在したことが知られるのである。
戦国時代の山城と城下の関係をよく示している。
なお、元亀元(1570)には姉川合戦に先んじて、近濃国境の刈安にも織田軍に対する要害が浅井・朝倉軍によって構えられたが、木下藤吉郎によって誘降されたことが「信長公記」に見える。
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