昼以降やたらと気温が上がって本堂作業は半袖。
暖かいと血の巡りが良くなっているはずですがお頭の具合が良くないのは温度関係なし。
物忘れが多くて・・・
よく考えれば若い頃もそうでしたから自分に関してはこがれも年齢関係なしか。
ここでいつもの話に戻りますが「年寄りだから免許返納せよ」の思考は誤認かと。
うっかり、忘れ物、まちがい、思い込みは老若男女関係なし。
先般発生しましたがプロの整備士が思いっきりバックでアクセルを踏んで歩道を歩いていた母子の命を奪っていました。
脳そのものの劣化については別に病としてあることですからすべてそれと同等に扱うのはおかしな話。
扨、先日は下山代官屋敷について記しましたので大沼城を。
城郭大系の住所地は「東加茂郡下山村大字東大沼」とあります。現在は下山村と同様豊田市になりますが、こちら大沼城が本城だったにもかかわらず下山村の大沼は「字」となっています。豊田市の支所は下山にありました(場所はこちら)。
大沼城の件、城郭大系から転記。
「大沼城址は、大沼の町並みに沿った城山と呼ばれる小高い山にあり、西方にある洞樹院という寺との間に深い洞があって小川が流れており、東方は起伏した山続きとなっている。
洞を流れる山水を桶で堀に引き入れたので、この流水のあたりを『桶が入り』といい今は『豊が入』と書いている。
城は文明年間に木村東見入道安信が築いたものである。
安信は天文元年(1532)、城の西麓に入宝山神宮寺を建て、翌二年八月十四日、城中で逝去した。
ついで嫡子木村新九郎信基が城主となり、神宮寺の高地を選んで若宮八幡宮を再建した。今も洞樹院の裏にその祠があり、八月十五日を祭日として同寺前の人々が祭礼を行っている。
元亀二年(1571)四月十五日、武田信玄の兵が足助を落し、城主鈴木越後守仲綱を追い、部将の下条氏に城を守らせた。その後四年間に武田勢は『足助七城』を攻略した。
七城とは足助城・賀茂村浅谷城・阿須利城・阿摺村八桑城・大沼城・田代城・安代城をいう。
その間、天正二年(1574)に武田勝頼の兵が大沼城に殺到し、攻防の末四月十四日、火攻めにあって大沼城はついに落城した。
こうして木村氏は滅んだが、武田氏の支配は受けなかったらしく木村新九郎の養子で松平村の大給城城主松平乗正の次男飛騨守近清が天正三年、大沼城主となった。
近清は神宮寺を八沢山洞樹院と改めて菩提寺とし同十一年に病没した。
二代目近正ははじめ、荻生伝蔵といい近清の嫡子である。松平家に仕えて大給新田千五百石を領していたが、父近清の死に伴い大沼城主となった。
天正十二年、徳川家康が織田信雄を助けて羽柴秀吉と戦った際、家康の命によって蟹江城を攻めて功を立て、翌十三年家康の家臣石川氏が家康に背いて秀吉に従おうとして近正を誘ったが、近正は応ぜず、かえって嫡子一生を浜松の家康のもとに送り人質として忠誠を誓った。
同十八年に家康が関東に移ってから上野三ノ倉の地に五千石を領することになった。その後大沼城は廃城になったと思われる。現在、遺構としては山頂の檜の立ち並んでいるあたりに、本丸・二の丸・三の丸・堀などの跡がわずかに残っている。」
コメントをお書きください