天気は晴れながら寒くて風の強い最低の一日。
寒さには慣れもしましたが、ここ数日サボりまくっていた例の川島清右衛門墓の掲示板の修正作業を。
ご指摘を受けた「御要所」の「要→用」に文字を改めたほかそもそもその文言の元ネタは先日も記しました通り平成20年発刊の「相良史跡」からでしたが清右衛門の法名といえば大元の史料としては拙寺の過去帳ほかありませんので念のためそれをチェックしたところ転記ミスがありました。
相良史跡のものは清徳院重永となっていましたが清徳院釋重水が正解でした。
法名を間違えては申し訳なし。
その妻が清心院釋徳水とありましたのでまずそれは「水」で間違いないでしょう(過去帳そのものにも誤記はあるものです)。
夫婦で同じ文字を法名に入れることはままありますからね。
過去帳を眺めていて気付いたことはその妻に二人目が存在したこと。二人目の方には院号が命名さずに法名だけですから明らかに上下関係(正妻と側妻)といったところが推測できますが本当のところはわかりません。
またその二人の命日。
慶應四年1868六月十二日と六月十三日。
清右衛門が文久三年1863七月十二日その十二に何かの決意のようなものを感じます。彼の息子清次郎重基の名も過去帳にあり
ました。彼が没してからは明治期くらいまで水野家がこの墓を管理していたのでしょう。
④は清次郎重基の娘が水野家嫁いだ際に持参したという田沼意知の画。
⑤は参考のため清右衛門の発した貸付書の書き下しを添えました。
相良藩奉行 川島清右衛門重固と妻 清次郎重基 墓
川島清右衛門は須々木村の出身ともいわれるが不詳。 相良藩主田沼備前守意留に仕え、生来利発 天保七年1836 勘定役に取立てられた。 天保十一年四十二歳の時田沼玄蕃頭意尊が藩主になった際 勘定奉行に抜擢され幕末期の苦しい藩財政の保持に専念した。 年貢免定(賦課率)を決め天保七年より安政六年1859まで 二十四年のあいだ井上寛司とともに田沼家を支えた。 藩中では「御室御用所」を設け町内百花に通称「御用所」を 開設。東遠における金融機関として掛川、横須賀、相良領を 中心に貸付を行った。 文久三年1863七月十二日六十四歳。
法名清徳院釋重水。 妻は清心院釋徳水慶應四年1868六月十二日。 また釋妙清同年六月十三日。大澤寺過去帳よると妻は二人いた ことが推測できる。 清右衛門没日と同じ十二日とその翌日の死は謎である。
重固の子清次郎重基は分限帳に「給人席」(藩内身分)二十三石。 水戸征伐には「大炮役」として出陣。文久三に父の家督を継ぐ。 明治元年田沼意尊の小久保藩転封に従い明治三年に「小久保藩 大属」さらに「小久保藩庁掌」を任命される。 後、郷里に戻り相良警察署池新田巡査になった。 その娘が朝比奈山ケ谷の水野家に嫁いだが嫁入りの際持参した 田沼意知が描いたといわれる画が伝わっている。 明治十九年九月三十日没 法名釋離塵
相良藩奉行御室御所川島清右衛門重固貸付書
以剪紙致啓上候向寒 之節御座候得共弥御堅固 被成御勤役珍重奉存候 然者当領分榛原郡波津村 当暮取賄金差支候ニ付 御室御所御貸付金之内 弐拾五両拝借仕度旨 願出候間相糺候処相違無之候 之間御貸付相成候様御取計 可被下候尤拝借人差出候 証文質物等之儀相改 其 御用所江差出申候 右願人三保太郎願之通 御聞届宜御取扱被下候 勿論元利返済方之儀ハ 聊無滞様可申付候此段 可得貴意如此御座候 恐惶謹言 田沼玄蕃頭内
川島清右衛門 重固 花押
十一月十三日 御室御所
御貸付 御役人中様
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