先般記したばかりの川島清右衛門重固の墓碑紹介掲示板に誤記が数点みつかったことと追記も数行あってその改作を試みています。
文言製作(といっても転記主体で文字合わせが主です)さえできればお天気の具合を見て貼りなおせばOKですから。
よってその紹介文の作り直しで一日を過ごしました。
朝から冷たい雨でしたから一歩も外に出ず。
奥方が買い物等で出入りしていましたが私はずっと留守番でした。
というのもその日の午前は法事を承っていましたが施主がインフルエンザに罹ったということで中止順延になったのでした。
今、どちらでもそのインフルとコロナなどの感染症が流行しています。
逆に私が罹患した場合はどうなるのだろう・・・「その時になってみなくてはわからない」としか言いようがないですね。
無理をしたとしても他者への影響を考えると・・・
ああ、思いつきました・・・副住職(息子の自称)を呼び寄せればイイだけでした。
尚、正式に「副住職」を名のるには本山の承認が必要になります。
私が亡くなるか引退し彼が住職として継承するにはスムーズに進むのですが。
扨、先日記した川島家の墓標ですがそのお隣に長い間放置されていた墓碑があります。
ずっとその川島家の墓に寄り添うようにあってこのほど川島家の墓碑をキレイに据え付けていただいた松永氏が「折角のご縁だから」とこの墓も据えなおしてくださいました。
一見すると「早川源三郎」の如く。
しかしよく見れば「早」ではなくその文字は下の「十」の部分が上に突き抜けて上の部分が「日」でなくて「田」。
「田に十」が組み合わされたような字。
よって過去帳を探します。その苗字はナシ。
しかし正面に没年が記されていますので話は早い。
「文化十三年十一月六日 釋了本 源三郎事 新町」とあって
墓碑の源三郎と相違ないところですが過去帳にはその問題の苗字が不記載。
当時の過去帳には名前のみというのはまたぞろですが墓碑には記されていて過去帳にその苗字がナイというのはちょっと首を傾げるところ。
そして今、やはりその新町には勿論その名から推測できる家はナシ。川島家と同様いわゆる無縁墓でした。
私は苗字があること、新町というお城の前の通りに住まったことから身分的には武士であったかとを推測します。
源三郎・・・あなたはたれ?
そしてその早川ならぬその字と読みは?
「早」に見紛うその字は「卑」の異体字ですね。
よってその読みは「ひかわ」源三郎さん?
その「卑」の字については神の名や卑弥呼の如く使われている例はありますが、現代は苗字として見かけることはありません。
江戸期くらいまでは普通にあったのかも知れませんが、その文字をきらって多様な字を当てて今があるのかと。
また川島家の墓に寄り添うようにあったのはこじつけのような気もしますが何らかの関りがあったかも・・・などと。
ただし清右衛門の没したのは文久三(1863)ですから源三郎の文化十三(1816)ですので半世紀ほどギャップがあります。
田沼家家臣(意次時代)にもざっと見当たりません。
しかしまた清右衛門の須々木出身の説ですが、拙寺過去帳には元文期(1736~41)に「浜主」という文字面とともに「川嶋」の文字が出てきますのでその系統ということもあり得ます。
そのころからの付き合いがヒカワ氏とあった可能性もありますしまったくの無関係というのも。
いずれにしろわからない・・・というのが本当の所。
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お祭り大好き (日曜日, 21 1月 2024 00:56)
墓碑紹介掲示板は、歴史に関心のある者にとり有難い存在です。 川島家案内について、浅学につき不備は気づきませんでしたが、「御用所」あたりでしょうか・・・・。
檀家の墓石のなかには、田沼意次侯が老中時の安永年間やその時代以前に亡くなった方も見受けられますので、ご子孫の了解をいただければ同様にご案内いただければと思います。武田菱や立ち葵などの家紋も拝見させていただいております。 「ハカ・テラ・シロ」に染まりつつありますが、年数の経過した文字を読み取る能力がないのが残念です。
今井一光 (日曜日, 21 1月 2024 18:37)
ありがとうございます。
「御用所」もそうですが法名の間違いもありました。
史蹟調査会の冊子から転記したお粗末さが露呈したのでしたが
そもそも元記事の段階で拙寺の過去帳からの転記ミスがありました。
また追記したい事も多々ありました。
それら含めて数日中に改めるつもりです。