瓶割山 長光寺城別名瓶割城 瓶割柴田から

 

昨日は庫裏で寺務仕事。

先日記した年回表の仕上げです。

100回忌200回忌300回忌を。

たまたま今回は人数が少なくあっという間に終わりました。

午後は夕刻からの法務の用意。そういう時は外仕事にはまず取り付きません。

尚、参考までに一周忌、2023年に逝去された方々の年齢を足し算しその人数で割り算した数字が86.9歳。今年は特に年長者が多かったような気がしましたので・・・。

最年少が年初で不慮の事故で亡くなった72歳の方でしたが最年長だと101歳。

奥方は「平均年齢の高さ、結構スゴイ!!  これから87歳まで生きるよう目指せば皆さん御の字かも・・・」と。

私は「白骨の御文」で蓮如さんが述べている「我や先 人や先 

今日とも知らず 明日とも知らず」や「人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば」の「我が先」「老少不定」等の件、日常口にしているだけに「私の事」については笑いながら流すだけですが。

 

扨、昨日の瓶割山の続き。

瓶割山は瓶割城という城がありますが、現状別名の長光寺城の方が名が通っているようです。

城郭大系にもその記述があります。

 

「長光寺城は『碧山日録』によれば佐々木四郎政堯が応仁二年(1468)の時に宗家である佐々木重頼に敵対し細川氏に味方してこの城に拠って戦ったことが記されている。

永禄十一年(1568)この城にいた六角軍は織田信長に抗し、敗れて落城しその後元亀元年(1570)織田信長が柴田勝家をしてこの城に拠らしめ佐々木を制した。

この時、六角義賢・義弼・義定はこの城を攻め、柴田勝家は籠城し、瓶割柴田の異名をとったことが、『本朝通鑑』に記されており、このことから瓶割城ともよぶ。天正四年(1576)の安土築城頃に廃城となったようである。

遺構としては頂上部平坦地に一の丸・二の丸の丸跡を残し、部分的に石積みを見ることができる。

また、焼き米の出土地があり、米倉跡と考えられている。」

 

高低差も大して感じず、ハイキング気分でサラッと行ける城だったかと。

柴田勝家の名が残る城でもありました(場所はこちら)。