千葉氏系 隠岐守と熊野権現 東京都板橋志村城 

 

昨日午前は息子が静岡市内で法事があるということでその帰りに当家に寄りました。

要は「メシを食わせろ」ですが、先日バッテリーあがり後の彼の車がそのまま放置されていましたので再チャレンジの件もあったよう。

あの際は私の車のバッテリーと繋いでもうんともすんともだったのでしたが実はそのバッテリーのまったくの無反応振りに私も不審を抱いていました。コードの断線についてですね。

また、まともに電気が行っているのにも関わらずセルモーターが回らないとなれば、他の問題が出現しているかも。

 

ということで彼と食事前に車庫へ。

4本あるコードを全部試してみることにしました。

前回使用した大容量対応のケーブルはやはりダメでした。

電気がまるで通じていない感。

続けて2本目、古めで劣化気味のコード、細目のタイプを引っ張り出しましたが、ここで初めてセルが回転することがわかりました。

「こりゃ、しめた」とばかりにアイドリングを上げているとケーブルから煙が立ち上がって中断、素手では持てないほどの熱になっていました。

見ればコードを被覆しているゴムが劣化、ヒビ割れが発生して中身の銅線が見えていました。

3つ目も同じようなケーブルでしたのでそれはヤメにして、最後に私の車に積んであったまっサラのものを装着、すると難なくエンジンはスタートしてくれました。

「始めからそれを出せ」と叱られましたが。

 

おそらく充電は無理とは思いましたが、エンジン内にオイルを浸潤させるためにも「一周走って来い!!」。

30分程度走って車庫に入れてからエンジンを停止。そしてスグにセルを回すと・・・案の定再起不能、充電ができなくなっていました。

人間と同じ、体が終末を迎えているところに、胃に高栄養のものをブチ込んでももはや受け付けない・・・

 

今回の反省事項。

①ブースターケーブルは経年劣化する

②断線していることもある

③大きめ容量のケーブルを用意しておく

④古くて使えないケーブルはさっさと廃棄する(あればチャレン 

 ジしたくなりそれは時間の無駄)

 

③は接続する車によります。24V対応までは必要ありませんが普通自動車×トラック程度の状況余裕は必要かも。

喩え自車が軽自動車であったとしても。

 

息子は今使用している軽自動車に常備しようと1本購入していました。

また彼は庫裏のトイレに入った時「なんだこの暖かさは・・・」 (導入したセラミックヒーターに)と感動しその浜松の自宅への道すがら、家電店に寄り道してそれと同じ機種を所望。

彼の部屋は石油ストーブ禁止のお達し、家電製品による暖房器具が必需とのこと。

それはトイレではなく足元を暖めたいとのことでした。

部屋の暖房はエアコン+電気ストーブそして今回のヒーターですね。

 

私どもが午後3時頃、息子と別れて自宅に向かっていると東京の友人、「女墓場放浪」が近隣の、といってもチャリで30分、「志村城を散策してきた」との報を。

以前、石神井川にかかる板橋について記しましたがその続き。

東京の地名に関わるお城では「照姫さま 豊島泰経二女 石神井城」もありました。

 

たくさん画像を送ってくれましたので「寒いのに・・・」と労うとこれから「風呂入って帰る」とのことでした。

そういえばあの辺りにはスーパー銭湯があったような。彼女は風呂好きで何度か銭湯の暖簾を送ってきていました。

いつものお礼に「芋切干とお茶を送る」と約したものの先日お店に聞くも「まだ切干はできていない・・・」。

それはもうしばらく待たなくてはならないそうです。明日辺りまた聞いてみよう。切り干し芋は作者によって好みが分かれるものです。

奥方は「銭湯と切干そして無量寿・・・いよいよババァになったなぁ」と。しかし彼女は奥方や私とは段違いに行動力がありますし動き回っています。

 

扨、志村城。いつもの城郭大系の記述から。

千葉隠岐守の比高12mの平山城とあります。

 

「新編武蔵国風土記稿」によると「古城跡村(志村)の西堺にあり、広さ方一町半、高さ処にて古松数株繁茂し、熊野権現鎮座す 東方から堀の跡少く残れり、延命寺(城跡)の伝えに拠れば往昔篠田五郎と言者住せし所なりと、或は千葉氏支族の居りし所とも言えり、其詳なることを伝へず」とある。

「江戸名所図会」ではこの城を『千葉氏の城址』と呼び「今も空塹の如き形、所々に残れり」とし江戸時代の中頃までこの地を「堀ノ内村」と称していたことを伝えている。現在でも空堀とおぼしき跡が残っている。

 

城址の近くの坂(清水坂)の旧名は隠岐殿坂といった。

隠岐守は千葉氏の一族に属していた人物といわれるが、名前は詳らかではないと「江戸名所図会」は書いている。

また城址の南方を「中ノ台」西方を「西ノ台」と称し志村城の出城的位置付けを持った防禦施設であったろうと考えられている。

熊野権現はこの城の鎮守社(現在は近郷の産土神)として熊野から千葉氏がこの地に勧請したものであると伝えられ、社地の字名の別称を隠岐殿屋敷と呼んでいる。また、同社の別当寺である延命寺は三次山(さんじざん)の山号を持っており、これは千葉隠岐守の家臣三次(みつぎ)某が建立したという伝承がの残っている。

 

大正五年に大部分が崩されたという一夜塚(ひとよづか)は西南に位置していたが(前野町)、この塚は小田原北条氏が千葉氏の守る志村城を攻めた時、一夜にして炮坐(いしびやだい―砲座)を築き、ようやく志村城を落したというが、正確な史料はなく、伝承にすぎない。

でした。

 

今は宅地化 家々が林立。

主郭部跡はマンションがそびえるトップ、北と西が崖の様。