先日、法要のおわり、私がおしゃべりしたあとに「御一同皆さんの中で何か・・・ございませんか」とお伺いをたてました。
散々私が一方的に話し散らかしたあとで、そこには対話というものがありませんので、その締めとして我が有り様を自己満足的に修正したいがために投げかけることきまぐれによくあります。
その前の法事では高校生からの質問が数件あって、歓んでその対応を楽しませていただいたわけですが、今回その時には最前列の御当家最長老95歳のお婆さんが「ハイ」という具合に手を挙げてくださいました。
奇特なことです。施主さんが「まぁ、坊さんのリクエストでもあるし一つくらい何か付き合ってあげよう」的な対応はありますが、まずオトナたちは沈黙していますからね。
その方は孫が若くして闘病生活となり亡くなったこと、夫が亡くなったことの悲しみについて語っていましたがそもそも御年95ともなると、そういった感情を吐露(発言)するといったこと自体が特異なことになります。
家族縁者一同がそのサプライズに仰天していましたが、坊さんの一方的なお話に「質疑応答」と言ってしまうのは仰々しいのですが何か「対話」があるということはほっこりさせられます。
オトナたちがその対応を諦めて「応答ナシ」の無言に陥るのは実は聞いてみたいことは山ほどあるが「失礼な事は聞き憎い」の遠慮と「ヘタな事を聞いて恥をかきたくない」の畏れがあるからですね。
私は時に「何でもイイですよ、『失礼すぎ ストレートすぎ』と思うようなことでもまったくOK!!です」と付け加えてはいますが。
コレは対話というものに参入する仕方に慣れていないということと、対話そのものの方向に問題があるケースがありますね。
そこで表記、親鸞仏教センター(真宗大谷派)発行の「アンジャリ」43号梶谷真司氏「対話をすれば何でも哲学になる」から。梶谷氏は碧南市の「無我苑」にて「哲学対話」なる「一緒に考える」会を催しているとのこと。
哲学などと大風呂敷を広げると敷居が高くなってしまいますのでそのタイトルには~自分で考える大切さを体感するために~とあるのでしょう。
要は「自身で考えたこと思ったことを気楽に話してみる」会だそうです。
ただし取り決めルールがあってそれが「なるほど・・・」の合点。
転記すると
①何を言ってもいい
②否定的態度をとらない
③お互いに問いかけるように
④発言せず、聞いているだけでもOK
⑤知識ではなく自分の経験にそくして話す
⑥話がまとまらなくてOK
⑦意見が途中で変わってもOK
⑧わからなくなってもOK
考えることは「自由」ですので①こそが基本の中の基本ルールといいます。
当然に②の他者否定は有りえませんね。否定されてしまったら会話は進みません。
賛成・共感は出来なくても「聞く」ことによって自分とは違う方向やその存在に触れることができますから。
③は会話の中でデリケートな部分。
「問いかけ」風のオブラートがないと「何故 どうして」の尋問風、下手をすると言葉の暴力になりかねませんから。
私はこの会話におけるそのルールを本堂に掲げようかと考えました。
お話は「何でもイイ」のです。大体正解などないのですから。
「不躾な!」と思ったり「イラっと」きたら「お前の負け」。
まぁ勝った負けたのレベルではありませんがね。
人間はそれが好きだから困ります。
④皆さんが「聞いているだけ」でもそれもアリ・・・
画像は昨日の夕刻。
風が強く、この日も外仕事ナシ。
そして18年頑張ってくれた給湯器の交換の日。
ついに追いだきができなくなりました。厳寒期前に着手しました。
メーカー担当者の説ではここまでもったのは「アタリ」だと。
10年が交換の目安とも。
さぁ、相良といえども5℃を下回るかも。
コメントをお書きください
小山昭治 (金曜日, 01 12月 2023 09:09)
話し合い、対話。世間一般 ヘタですね。
我が強いと言いますか。政治家がそうですが。
若い時から、ディベートの必要があると常に思います。
話し合いが「けんか」になる。相手を否定する。いやですね。
常々言います。Aの意見が違ってもBの意見は合うかも知れない。
それぞれに考えたいものです。
今井一光 (金曜日, 01 12月 2023 17:21)
ありがとうございます。
大成して財を成したカリスマ風発信者が自らの意見こそ100%正しいかの如くに
他者を誹謗し会話は「論破する」「ねじ伏せる」ことに重点を置くこと、その風潮の
蔓延こそ人々がその輪の中に入りにくくなった遠因かも知れません。
他者の口を閉じさせること、それでは意見を述べても無意味という諦めにしか
繋がりません。
口では「聞くことが大事」といってもなかなか難しいことですね。