史跡研究会の会合の終わりころ、息子から電話の呼び出しがありました。
日曜日に催される横浜のご門徒さんの法要に私のピンチヒッターでそちらに向かうついでに車庫の彼のバカ車にエンジン点火したところ、「うんともすんとも言わない」ということでした。
そういう季節になりましたね。
バッテリーあがりです。
スグにそれに乗ってどうこうするワケではありませんが、「とにかくエンジンをかかるのを見て出かけたい」とのことでした。そこで私は会を抜けて一人帰宅したのでした。
コードを私の車のバッテリーに繋いでみましたがやはり彼の車のバッテリーは「死んで」いることを確信。
彼が帰宅したら「牽引押しかけ作戦もアリ」とは思いますが奥方が「それでダメならどうやって車庫に納めるんだ」と私の楽観にクレームを入れていました。
まぁ旧車のマニュアルミッションですからそれでエンジンがかからないとは思えませんが。
まぁやってみなくちゃわからない。
バッテリーは寿命が来たといことですがそれは命(電池)あるものはすべて死ぬということで同じ。命終わることを電池が切れたなどと喩えることもありますね。
扨、昨日午前の法事は先に墓参りをしてからの本堂本法要。
菅山の山の上の墓地へ。急坂を上がりますから雨天後はスニーカーでというのがならい。しかし晴れ続きでそのスリップの心配はなく、いつもの草履での墓参でした。
ただし草履でのアップダウンは少々慎重さと運動量に違いがあることを感じます。
途上、施主より「朝からコレで2回目!」のやれやれ感をお聞きしましたが(施主の墓は殆ど丘のトップ)早朝から事前に掃除と献花をしたとのこと。
「こちらへ2度とは・・・」などと感心したわけですが、途中気になる墓標が目に入りました。
前回の墓参では気づきませんでしたが「これは・・・」と思わず立ち止まってしまいました。
その墓標が頭から離れなかったからか法話は「時計」。
カチカチカチカチと刻むその時計・・・時間の流れは恐ろしい。
私の命の残り時間を削っているようにも、計っているようにも思えますし、「そろそろ時間ですよ~」とも「無駄な時間の浪費を~」のようにも取れるわけで。
まるで懺悔を促されているよう感じます。
今はデジタル主流ですが人々の趣向は針の進行とその秒針の動きに回帰しているとも聞きます。やはり「時」への畏怖は永遠なのでしょうね。
ただし日本の文化にはあまりその「時計=余命」といった示唆という感じはあまりしません。
時計などの機械式のものは古くて精々家康期のものが最初でしょう(スペイン国王からのプレゼント)。市民への普及となると近年になってからで、その件あまりピンときませんが、欧州文化では「時計」は一つの無常メッセージのアイテム。
画家たちはそれをよく描いたものです。
私がその山で見かけたエピタフは「命有者必死」の五文字。
その文字が気になって法要終了後しばらくたって今一度そちらにお邪魔しました。私も「2度目」ということで。
まさかあの時にそれを撮影するワケにはいきません。
その語は以前記したお寺の掲示板「おまえも死ぬぞ」と同様のことですがそれは縁者が自戒の念で記したのでしょうね。
どういう方が存じ上げませんが「令和二年」とありましたので私が初見であるはずです。
仏教は人間界「無常」だからこその教えで、その「無常」の二字がそれらの語の言い換えにもなります。
そしてラテン語にもそれがあります。
やはりエピタフにつきものでもある「メメント・モリ」もその手の語ですね。
ラテン語の「メメント」は英語の「モーメント」。
「モリ」は「モータル」と。
以前奥方にその語について聞いたとき「テレビで宣伝しているゲームだろ」と。
慌てて息子に問い合わせたところ「ラテン語だな・・・」。
彼は既に母親の上、ひょっとして私よりもずっと成長しているような。
尚、それについては各自ご自身でそれぞれ味わっていただくのがよろしいかと。
ちなみに蓮如さんは「朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり 既に無常の風来たりぬれば~」です。
まぁ蛇足ですが権力者、お金持ち、特に絶頂期「我が世の春」の高慢ほどその迫りくる現実と皮肉に気がつかず、その時、周囲を含めて大慌て、それを「滑稽」と揶揄されるものです。
画像③は先日の寺楽市で出品された茶道の茶碗たち。
二束三文の価格の売りさばき値でかつ残り物。
よって私が購入させていただきました。
④そのうち2点を息子に持たせました。
法要に参上できない私からお詫びのしるし、施主の子供たちへの土産にしようとの軽薄。
気に入ってもらえるかどうかわかりませんが男の子は「骨董品、大好き」と言っていましたので。
女の子はインターナショナルスクールに通って英語ペラペラの様、茶道の嗜みの強要です。
日常の道具として使っていただいてもOKと伝えて手渡してくれると思います。
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