設楽原飯田線鎌屋敷踏切 設楽氏来迎松城遠景

 

大晦日の除夕鐘に備えて鐘楼周辺の清掃片づけが課題。

以前伐採した残材が放置されていましたがそれを集めて山門裏やら本堂脇の雨があたりにくい場所に並べました。

湿気の多い季節だと害虫を呼び寄せてしまいますが今頃なら大丈夫かと。

大晦日の焼き芋屋さんの着火用のものと鐘撞のドサクサに暖を取るためのドラム缶を置きますのでその燃料にする算段です。

松の剪定を、イイ加減な仕事ですがついに始めました。

杉の枯れ葉もやちらと落ちますが松葉も着火には最適、松杉の葉も集めておきます。尚、落葉と言えばメタセコイアやイチョウもこれから。イチョウなど色づいてもいませんが。

 

扨、昨日は岩広城について記しましたがその掲示板に来迎松城と私的にどうしても興味が沸く城の名がありました。

来迎といえば阿弥陀如来、真宗門徒にとって一心一向の仏ですからね。

私は何度かその前を通過していますが、それは「道の駅もっくる新城」前の国道151号から分岐する県道439号とJR飯田線に近くまた、茶臼山駅というこれもまた歴史上耳に親しい駅名の踏切を通過したからですね。こちらの茶臼山というのが長篠設楽原の合戦時に織田信長が本陣を敷いた場所でした。

来迎松城の地はこちらになりますが住所地は「新城市富永字郷中76」でたまたまとはいえ「76」(なむ)というのもイカしています。私はその数字の並びは特別に好み5000円程度をだして車のナンバーにそれを取り寄せています。

 

ただそちら「城址」といってもぼた山一つと鳥居と社が目に入るだけ。

判然としません。背後の藪もその縄張りにあるのかと。

そしていつもの城郭大系の記述は「富沢字鎌屋敷」城郭大系は少々古いですからね。この鎌屋敷なる地名も古を伝えるものでしょうね。

その記述は「設楽越中守貞通の根城 土塁・谷堀が残る」でした。

 

尚、拙ブログでは最近設楽氏の遺構について記していますが(以前は設楽原歴史資料館の岩瀬忠震の銅像)、たまたま先日、ご指導を戴いています二村氏(豊橋市を中心に「三遠地方歴史と民俗研究会」で活動されています)が新城市富岡ふるさと会館にて「甲賀の伴氏と三河の伴氏」というタイトルで発表をされていました。

 

内容資料はその設楽氏に関わるものですので二村氏の了解を得て拙ブログに転記させていただきました(左側ナビゲーションに常駐)。