旗日でも完全オフの一日でした。
数日やそこいらでやり切れるものではありませんが、一昨日から庭仕事をぼちぼち始めました。来週末は報恩講ですからね。
何をやるにしても外仕事には絶妙の天気でありがたし。
半袖仕事は当たり前のスタイルとなりますがそれは夏の如くに気温が上昇したからです。
しかし雑草繁茂のボサボサの中に入り込むのは春先のマダニ×3の洗礼を思い起こします。まぁ仕事を始めてしまえばいつもの「勝手にしやがれ」ですが。
この夏は高温で植物の成長が甚だしかったことと私自身、大分外仕事をサボりましたのでどこもかしこも酷いものです。
どこかで息子のヘルプを求めることにします。
扨、昨日まで2日間連続の山本勘助つながりで記しましたので本日もまた。
最近は御無沙汰している設楽原周辺ですがまだアップしていない画像がありました。
尚、山本勘助の三河牛久保の塚はこちらです。
その中での勘助つながりといっても長篠合戦の頃は山本勘助はすでに過去の人、その勘助の息の山本勘蔵信供の墓が設楽原にありました。
それは有名な激戦地の馬防柵連吾川前ではない、当初の平坦激戦地、勝楽寺(JR三河東郷駅近く)という禅寺の南側の平地にあります。
勝楽寺前激戦地という記述もあったりしますね。
山県昌景軍が大久保勢の鉄砲隊に畳みかけられた地ですね。
冬季であれば寺の南の石段の上から遥か少し左方向に目を凝らすと(東には鳶が巣山)その存在らしきこんもり感がある場所を確認できます。
車でも行ける畔道をそれを目標に進むと「伝 山本勘蔵信供之墓」の石碑があります(場所はこちら)。
以前拙ブログで「米倉丹後守正継」の墓について記した際、金子藷山(合戦後三十三年目に訪れた)の名を記しましたが、実はその人の随筆にもこの地について記されています。
それに登場する「尺二三寸の碑」は誰かに持ち去られて今は失われているとのこと。五輪塔でしょうか。
それが最後に見かけられたのは昭和55年頃といいますので、それほど昔の話ではありません。
車でやって来てトランクにでもひょいという具合に積み込んで持ち帰ったのでしょうが彼を独占したかったのでしょう。
無意味なことをしましたね。そうであれば口外できないものですのでその人の消滅とともに消えて無くなってしまう運命でしょうから。たれの墓碑かわからぬまま。
設楽原戦場考から
「信供は、はじめ長篠城を囲む城監視隊として、高坂源九郎昌澄らと共に備えていた。しかし鳶が巣山周辺の各砦を攻略した酒井忠次軍が、長篠城の城兵らと呼応して城監視隊の掃討攻撃を展開し始めたので信供らはこれに応じて午後一時近くまで応戦していた」
ということで、あの連吾川東岸の山県の墓(またはこちら)徳川家康の陣の向かい側(南端)にある理由がそれですね。勝頼の全軍集結総攻撃の触れに呼応したものだったのでしたが信供は山県昌景らと最終決戦地へ。
山県昌景が討死したのち、武田軍は総崩れ。
鎌子信治氏の「長編長篠軍記」に彼のその時の様が記されています。
「吾こそ武田の其の人ありと知られたる山本晴行入道道鬼斉
の一子勘之丞信供が 只今最期を遂げて君恩に報ずる者に候
吾れと思わん面々討取って功名せられよ」と。
「山本道鬼斉殿の御子息と承っては、御親父を聯想。某は徳川麾下の士、渡辺半蔵守綱で厶。往年の御恩は肝膽に銘じ忘れ申さず けれども戦場のならひ 敵味方としてあいまみえては 余儀ない次第、偏にお宥しくだされ」・・・
信供軽く首背いて曰く
「往年の事はすでに去り申した。今日わが父を聯想されて、某をお認めくだされしは重畳至極で厶。殊に徳川家槍の半蔵殿と一騎打ちの勝負こそ拙者の名誉 いさぎよく此の首貴殿に進じ申さん」。
渡辺はその首を信長の首実検の後、事情を話して首をもらい受けてこの地に埋めて石標を。後年再び来訪して埋葬しなおしたといいます。
尚、半蔵のいう「御親父の旧恩」とは・・・
山本勘助が諸国武者修行のとき、信州木曽路山中で二歳ほどの子連れの婦人とその僕が賊どもの難儀の様に出くわしたといいます。勘助は賊を斬り捨てて婦人の家まで送り届けたといいますが、それが半蔵とその母だったという件。
そんなこと、あるのかな・・・不思議なご縁でした。
画像①は勝楽寺(右奥)の南。その辺りから東側を望むと②。
③はそちらから見た勝楽寺。
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