かつて特攻隊員として南方に向かい九死に一生を得て帰還した方の葬儀がありました。
冒頭私の喉の異常が発してその醜態を晒してしまいましたが コレは声が突然出なくなるというもの。一瞬頭の中が真っ白に。「早々に引退か・・・」との思いも頭を過りました。
今回は何とかチャレンジして復活することができましたが。
あまりにも突然のことでした。
また突然に発声が戻りましたがその原因はまったく不明。
体調コンディションと齢の問題でしょうね。
その方の壮絶「九死に一生」は2度にわたって体験したそう。
まず南方戦線に向かう輸送船団乗船時でのこと。
十数隻の護衛艦なしの航行はイチかバチか。
ジャワ島近海でおそらくアメリカの潜水艦に補足されたのでしょう、その攻撃を受けて目の前で仲間たちの乗る船がまさに真っ二つに裂けて轟沈する阿鼻叫喚の様を目前に体験、たまたまその方が乗る船と他の2隻が被弾せずに入港できたとのこと。
それから飛行隊に編入されてからは特攻の訓練。
先輩たちが次々に飛び立ち、「そろそろ次」の頃合いに本土で原爆が投下され敗戦と。無事に故郷に帰ることができたのでした。
原爆によってたくさんの命が失われたわけですが、そのおかげで帰ることができて今の家族がある。
その奇遇「ありがたい」話を聞きました。
幾度か記していますがその「ありがたい」とは、「むずかしい」「あること難し」の意ですね。
現在の使われ方とは少々違います。
如実にその意が伝わる文章がありますので私は「表白」~法要で坊さんがその意図を表明告白、弔辞のごとく記したもの~にその他いろいろな意味を込めて(初めての試みです)歎異抄四章を添付拝読しました。
特にその解釈の重点にされるところは一様ではありませんが、私は他宗と当流の圧倒的違いについて触れる際は、その御開祖の詞を借りる方向にあります。
特にまたこちらには真宗、親鸞聖人の教え(絶対他力・悪人正機・平生業成)が凝縮してあると考えるからですが。
また大変誤解を招きやすいというのが歎異抄というところがありますが今回故人の生き様に慈悲に基づいた歩を感じたというところがそれを拝読する機縁となりました。
その後、私なりの解釈を添えましたが・・・
歎異抄第四章
「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり
聖道の慈悲といふは ものをあはれみ かなしみ
はぐくむなり
しかれども おもふがごとく たすけとぐること
きはめてありがたし
浄土の慈悲といふは 念仏して いそぎ仏になりて
大慈大悲心をもつて
おもふがごとく 衆生を利益するを いふべきなり
今生に いかにいとほし 不便とおもふとも
存知のごとく たすけがたければ この慈悲始終なし
しかれば 念仏申すのみぞ
すゑとほりたる 大慈悲心にて候ふべきと 云々 」
尚、「かはりめ」とは気づきのことで、聖道の慈悲の実践を続けているといつかどこかで自身の非力と限界のようなものを感じるもの。それをまさに感じた時ですね。
「ありがたし」は前述の通り「むずかしい」。
「すゑとほりたる」は「徹底した 一貫した」の意。
またこの章は「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」(歎異抄十二章)と通じています。
はやいところ、名号、念仏をもうして「仏になる」ことこそ肝要であるということ。
その「名号をもうす」ことによって私の体と心に阿弥陀を招き入れることができその働きが新たな「気づき」を促すというもの。仏心の醸成、そして「仏に・・・」。
その「念仏もうして仏」の件も他流にはありえないことでしょうね。
キリストやイスラムにもその名を口にして「神になる」など聞いたことがありません。
余談ですが新興宗教の場合は唯一のイキガミが教祖さまというのが常。教祖が絶対の様です。
その形態は親鸞さんとは真逆です。
「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」(歎異抄六章)でした。
自身、今でいうカリスマ化を望んでいません。
要は上下子弟関係ナシ。上から目線ナシ。変てこな戒律ナシ。
「同朋」「平等」の精神が一貫していました。
みんなおんなじ、そして違っていてそれでヨシ。
それしかないですね。
画像は浄瑠璃寺周辺の花々。
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