午前は法事。
施主は本堂に上がる際は車椅子でスロープを上がって車椅子のまま本堂に上がりますのでそのための堂内の通路の確保から談合いろいろ。
敷物を用意するよりも車椅子のタイヤを拭く方法がベストと、濡れ雑巾で対応しようということになりました。
すると参集の皆さんの中にその方の顔はありませんでした。
そういえば最近、その方の墓参の姿を見かけなくなっていましたが、聞けば自宅内で尻持ちを付いてからリハビリを兼ねて施設に入所することになったと。
最近はお酒の方も自己解禁していたようですからそれが原因かも知れません。
その事故があった際、親族が携帯で呼ばれたようですが、「とても一人では起こせない」ということで二人以上のヘルプが常時必要ということ、そうなると今後対応できないという判断でこの度の入所が決まったようです。
これでいよいよ絶対禁酒になりますから大いなる楽しみも無くなってしまったわけで。
その方の足の筋肉の減少は顕著のようでした。
この転倒は両脚が上半身を支えられなくなったことから起こったに相違ありません。
この病因が脳溢血による後遺症ということもありますが長期療養による筋力の減衰が直接の原因でしょう。
リハビリとして頑張って歩いていていましたが、より移動を快適に俊時にということで電動車椅子を導入されました。
そうなると歩行について筋肉を使わなくなるわけですね。
「歩き」というものが如何に大切かわかります。
痛いから、辛いから~ということで歩くことを敬遠されがちになることは理解できますが、筋肉は「1週間使わないと無くなる」といいますので歩くことをヤメる=現状劣化する(今の辛さにより拍車がかかる)・・・余命を短くする・・・ということですが。
「転んだら仕舞い」というのはコレです。
転んで骨折入院すれば筋肉はドンドン剥げ落ちますからね。
転倒―筋肉減衰―(気持ちは以前のままで体は老化・劣化)―また転倒・・・というサイクルから脱却することは余程の精神力と努力が必要ですからね。
最後は寝たきりになって・・・という構図は嫌というほど見せつけられています。よって「痛かろうが自分に鞭を打って歩け」というのが私の考え。
医者の声を紹介。
「痛みは生きている証拠。神経と血液がしっかり行き届いている証左・・・」
「痛みは無視する」それしか無いと?
まぁその痛みとは人によって違いますが。
しかし「歩かなければ人は死ぬ」(筋肉を落すな)それは確かなことなのです。
ご家族と「私が」寝たきりになる前に「能く能く談合すべき」ことですね。
それは蓮如上人御一代記聞書の件から。
今でいうその語の醸し出す雰囲気は「良からぬ輩の良からぬ秘密内内の話」のことをイメージしますが、蓮如さんの言うそれは「寄合(談合―話し合い)」のこと。
蓮如さんはその語を多用します。
如何にみんなで話し合うことが大切か・・・それを強く主張しているのですが、それこそ今の紛争当事者に言い聞かせ、周囲もその旨説得していかなくてはなりません。
扨、今回の遠足で東本願寺解散自由時間が中途半端に長かったため、西本願寺まで出向いた方もいらっしゃいました。
その方にいただいた画像です。
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