かつて威勢を張っていた芸能界と政界の人の死がありましたが亡くなったあと、その生前に重ねた業が炙り出され、死んでから尚酬いを受けるという事案を見てきました。
それらは恰も地獄の果てまで堕ちたような感もしなくもありませんが、何であるにしろ「死んじまったら当人はわからない」・・・それに尽きますね。
「死んだもん勝ち」なのかも知れません。
ある意味仕合わせなことなのでしょう。まぁ地獄底抜けの悪業はそれこそ救いようはないですがね。
かつての日本人は死んだ後の地獄行きだけは避けたいと煩悩世界に暮らしていながらできるだけ善を積もうと努めたものでした。しかし人という者はやりたい放題が容認されるような立場に継続安定的にあれば、各自分本位、極めて特殊で異常な方向に進んで行くのでしょうね。
それを指摘してくれる人が居ない「王様」の如くに君臨すればやはりボロが出る。
要は(オレはエライから)「少々の逸脱も容認される」の傲慢に拍車がかかって暴走するといったメカニズムです。
それは周囲の忖度が育て上げるのでした。
周囲の指摘とそれを聞く耳は大切。
イスラエルとハマスの話題がウクライナ-ロシアの戦争から目を逸らさせていますが、思うにどなたでも「戦争なんてさっさとやめてくれ」と思うのでは。
しかしアメリカは国連の停戦合意の採決に拒否権の行使をしました。
イスラエルの地上侵攻の機会を奪いたくないというところで、国連の機能不全というものを改めて感じますが、とにかく今、ハマスの人質全開放とイスラエルの侵攻を抑えるために地球全体で忖度なしの人命重視のアピールと説得を続けて欲しいものです。
愚かな破壊と人命軽視のチェーンリアクションを止めてくれ。
「いともカンタンに人は死ぬ」とウクライナの方が語っていましたが罪のない人たちがまたぞろ無駄な死に方を呈しています。
「自身の腕に氏名を記す」といいますが、それは死体安置所に並べられた時のことを思量してのことだといいます。所持品が失われていれば誰だか不明に陥りますから。
日常の死というものを受け入れての対応なのでしょう。
よって「死んだらわからない」は自分の思いではなく、身元を判明させるようにしていること。
そんな究極の日常、ありえないことです。
私はただ見ているだけの身。
「仕方ない これが人間の様」ということで。
扨、これも重文指定。
東本願寺の手水屋形です。
鐘楼の改修工事完了の後、こちらの修繕に入るよう。
④は御影堂門とお隣の東本願寺の土産店。
手水屋形はその近く、より御影堂に近い場所にあります。
土産店内をのんびり回りたかったのですがそういうワケにはいきませんでした。
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