火葬場の友引休業の件ですが、たまたま昨日視たニュースでは神奈川県藤沢市の火葬場ではそれをヤメにして、尚且つ一日に対応できる件数を増やしたと。
それにより最悪2週間待ちだったのが4~5日待ちに変わったといいます。
昨日は最悪10日待ち・・・の件記していましたがまさか「2週間」などがあったとは・・・
冬場でその日延べということですから今年のような猛暑ではありえないような遺体崩壊または処置保存に大変な経費が掛かるでしょう。
管理者として人件費に維持費もupすることにりますが、その切実さに対応するために議会承認してそれを施行したとのこと。
まさに市民サービス。天晴れなことです。
仏教に関わりのない六曜に拘るバカバカしさ、それを歴史文化であると誤解されているのか、頑なに友引休業を掲げるその方向性も大いに疑問です。意味がナイことにいつまでも従い、市民不便を当たり前の如く放置したままにするなんて・・・
先日は史料館での史跡研究会の皆さんの前で大河ドラマの石川数正の残したメッセージ(築山殿の押し花)と手作りの阿弥陀如来と押し花の上に添えられた「正信念仏偈(正信偈)」について問いかけたところ、「そんなのわかるワケない!!」とのことでした。
特に解説もなくさりげない一コマでしたからまさに「わかる人だけでイイ」といった演出の遊び心なのでしょうが、ある意味数正の出奔は三河一向一揆への家康の処断に対して彼の心のうちをその推測できる理由の一つとして示唆したところでした。
家臣団には一向宗(浄土真宗)からの改宗を命じていましたから。
あの経典は真宗第一のもので他の宗派での拝読はありません。それを手放さず持ち続けていたということ、その一向専念の信心は捨てていなかったことを示唆する図でした。
たまたま手前の存知するそれが出てきただけのことですが、物語でそうそうわかりにくい台詞や使用されるアイテムに対して「ほう、これは」などともの知り顔で隣の奥方などに示して「知らないよ~」など言われて悦に入ることはよくあることです。
近松門左衛門の浄瑠璃「冥途の飛脚」の中の段の改作、上方歌舞伎「封印切」を視聴していてのこと。
劇中、掛け言葉が解るというのは自身勝手な悦びです。
ざっとそのシチュエーションを記しますと・・・
大和の国の豪農家から大坂の飛脚屋に婿入りした男が遊郭の女(梅川)に惚れこんで身請けの金子として預かった人様の金を使い、その遊郭から二人で逃げるというストーリー。
人情的に同情したくはなりますが、つまるところ「人の金」ですからね。現代でもその手の話はまたぞろあって逮捕お仕置きとあいなる例を見せつけられていますが、当時の飛脚屋の業務といえば今でいう現金輸送のお仕事。
信用第一、預かり金(劇中では一両小判をまとめた「為替」として封がしてある)ですからそれを破いただけで死罪という重大責任を問われる業。
遊郭で「どうせ身請けの金など持っていないだろう」と知り合いに罵られて意地の張り合いとなり、ついついその封を切って見せつけた挙句、その金を遊郭の主人に身請け代として渡します。
そして男は身請けした女にその事情を打ち明けるわけですが、男の「死んでくれ~死んでくれ~死んでくれ~・・・」と連呼。
現代ならば「勝手に死ね」と言われそうな場面ですが近松は違います。
女は「死んでくれとは勿体ない 私しゃ礼いうて死にますわいなぁ」ですからね。
そして「金の切れ目が命の切れ目」の台詞は封を切ったことと金がナイことを掛けていますね。聞いた事のある言葉です。
彼らが店から出立する際に「西門から」という女将さんの台詞も西方浄土とを掛けていることはわかりますが、その出立に際し見送る店の男女から「お目出度いと申そうか お名残り惜しいと申そうか」と。周囲はその身請けの金の件、真っ当なものと信じています。
すると女将から「そりゃ千日言うてもかえらぬこと」。
堂々巡りでキリがないということで「千日」(長い時間)なのですが、劇は近松、場所は上方です。
男の次の台詞が「その千日が肝先へ」となります。
そこで三味線と「焼場の土と~なるまいと~♫」ですから私が奥方に「わかる?・・・わからない!」となって大いに悦に入るのでした。
男の言う「千日」はブログでもかつて記しました通り。
現在の繁華街の様ではピンときませんが、かつて処刑場、野辺送り、墓場(~阿倍野あたり)という地でしたからね。
そして「あとは野となれ大和路や」の男の台詞。彼の生まれ故郷の大和に逃げのびる算段を示していますがこの言葉、御馴染み「あとは野となれ山となれ」の元だといいます。
人の金を使い込んだうえの刹那の悦も「野となれ山となれ」の開き直り、その心境、やはりそんなものかも知れません。
画像は大阪天王寺の本願寺派の超願寺。
竹本義太夫の墓があります。
墓石は新しいものになります(場所はこちら)。
道頓堀付近には火葬場墓地の他に芝居小屋などの興行が催された場所でしたが竹本義太夫はその道頓堀に竹本座を開いて近松門左衛門を招き、以後ヒット作を繰り出しました。
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