登城は市場地蔵堂から 信光明寺からの2つ 岩津城

昨日は昼間は安定した晴れ。

夕刻に水やりをして暫く黒い雲が立ち込めて19時前には雷が鳴り始め雨が降り出しました。

21時頃にはかなり酷い雷雨となっていました。

雨漏りが発生しない事を切に願うだけ。

 

扨、岩津の地には信光明寺はじめ何かとふらついている私ですが何故か岩津城について記したことがありませんでした。

何度か井田野の戦いなど周辺地域について記している中、岩津城こそが初期松平の拠点のようなことを記していました。

ざっと城郭大系の記述を記すと

「松平氏発展の基礎、この地方随一の要衝」というのがその評価です。

「岩津城は岩津山の東端、矢作川のつくり出す碧海・額田の平野を望むところに位置する」から始まり

元は中根大膳父子が領する地を信光が攻め、それを排除して以後信光明寺を城下に、周辺に城塞や一族、家臣団の屋敷を配してその城を拠点としたことはこれまで拙ブログにて記した通り。

 

その進出こそ山間部(加茂郡松平郷))から大河(矢作川)の水運が期待できる平野部にデビューしたという歴史上画期的な一コマとなります。

その後信光は文明期1470年頃に更に平野を南下、碧海郡安祥城を攻略して三男の親忠を入れますが、その流れが家康へと繋がっていきます。

 

この親忠が千人塚西光寺の建立に関わっていったわけですが岩津・安祥城と勢力を拡大するということは前述の中根の如く、地域に根を張った地侍集団を攻略し配下に吸収あるいは排除していくことが主眼になります。

当然に反松平勢力というものが集合、その反対勢力はいずれも岩津城の攻略を目指しそれを迎え撃ったのが井田野の戦いでした(明応二1493年第二次井田野合戦 お相手は・・・上野城主阿部満五郎、寺部城主鈴木重教、挙母城主中条出羽守、伊保城主三宅加賀守、八草城主那須惣左衛門)。

 

それら群雄が大挙しての岩津の城攻めも松平勢に屈服させられたという歴史がありましたね。

三河好きオンリーになるのでしょうが、松平家にとってこの城は出世の歴史を語るにその難攻振りも推測され欠くことはできない城でした。

今川氏親が差し向けた伊勢宗瑞も一蹴されているくらいですからね。

岩津城址はそう高い山にありませんで、いわゆる山城という感覚ではありません。

最後の画像は信光明寺側からの登城口⑮⑯⑰を振り返った図ですが、宅地が広がっている通り、とてもお気軽な城ですね。

ただし車の駐車場所は城址直近にはありません。

①②③④は市場地蔵堂から進んだ岩津城登城口。

②は①の向かって左側で民有地か。開削があったか切岸状の段なのか不詳。その上部が主郭になります。

 

比較的キレイに整備されていてちょっとした散策にはもってこいの城。

⑤⑥は主郭へ辿る虎口へ。現状ストレートに見えます。

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    お祭り大好き (日曜日, 27 8月 2023 17:35)

    1週間前は宇津ノ谷峠の西麓岡部側の坂下地蔵堂を参拝し、20年振りの秘仏公開で拝観しました。 地蔵堂周辺の2つに割れた石仏や一石三輪塔に歴史を感じました。

  • #2

    今井一光 (日曜日, 27 8月 2023 21:02)

    ありがとうございます。
    旧東海道宇津ノ谷峠、のんびり散策できれば楽しそう。新しい発見があるでしょうね。
    いつかはチャレンジしたいと思います。
    毎度バイパスのトンネル通過ばかりで・・・