百々城址 青山忠門墓と忠高の建碑 成瀬正肥篆額

ご門徒さんの御家で先般逝去された方の遺書を拝見させていただきました。

その手の書面に目を通すことは初めてのことでしたが内容には感慨深いものがありました。

亡くなる数年前に記したことが文末の日付でわかります。

冒頭、先ず子供たちへの感謝の言葉から。

そして法名の希望、「よろしかったら~」とあって施主はその名についての承諾を私に得るためにその書を示されたというところです。

これは有難いことでした。

そういった場合、私としても法名命名が真っ先に思うのですが、生前にそれを授与されていない方々が多い中、ご当人の希望がこのようにあることは奇特なことです。

何より「死」というものに向き合い、次のステップ、仏としての活躍を期していることが手に取るように分かるものでした。

 

文面の最後には葬儀について。

葬送は簡単に、しかし「通夜と本葬はホールで」という指定があって、「〇〇さん、〇〇さん」と複数の個人名をあげて「お力を借りるよう・・・」と。

簡略ながら、心がこもったものでした。

子供たちに感謝し、そののちタノムの叱咤激励にも感ずる遺書。さて、私にもできるかな・・・

尚、故人は真宗念仏の途を歩んだ方でした。

 

扨、昨日は青山氏の城址、百々城について記しました。

先ずは城郭大系の記述から。その他の城郭にさらり。

「青山喜太夫在城 青山氏代々の居城 石碑がある」と。

 

その通り、こちらの山のトップには石碑とその墓地結界が設けられています。

地権者のS氏の案内のもと墓参。

墓は青山忠門(ただかど)、墓碑は明和八(1770)年建碑されたもので丹波国篠山藩主の青山忠高によるものです。

出自の地と先祖の一所懸命を讃えたものですね。

 

因みにS氏がA(青山)氏ではないのは、苗字を憚ってのこと。

青山氏主家は大名としてこの地を離れますが、在地に残った一統があって当初はその青山を名乗っていたとのこと。

 

犬山成瀬氏がかつて日坂成瀬氏に「その名を変えてくれ」と依頼があったこと書面に残りますが、当時はよくあることですね。

今川氏など「天下一苗字」というくらいでしたからね。

 

その篠山青山氏といえば犬山成瀬とは切っても切れないご縁があります。

以、日坂の法讃寺の「成瀬暁心翁之碑」について記しました。「正四位勲四等子爵成瀬正肥篆額」ですがその成瀬正肥(まさみつ)という人が篠山藩五代藩主青山忠良の三男で成瀬家に婿養子に入ったのでした。

 

最後の画像が石碑方向に登り切った辺りの外側の様。

岡崎市はS家の了解を得て、家屋側に境界を設けるなど手を加えてそちらからお参りできるようにし、案内板などを置けば親切なのですがね。

あの長文の碑文についてざっと見、有名どころが各登場してくることはわかります。

正式に解読に至っていないとのことでしたが、正確な撮影ができないとそれにチャレンジする気も起きないくらい。

 

興味深い文化財なのですが。岡崎には夥しいほどの遺構がありますので手が回らないのでしょうね。予算にも限りがあるでしょうから。

 

最後から2番目が①の階段のスタートの手前。

昨日の塀とセットで虎口の形成とも見て取れます。

 

 

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コメント: 4
  • #1

    がつお (木曜日, 31 8月 2023 20:07)

    面白そうなので読んでみました
    あげるところが無いので拙のX(旧twitter)にあげてみました
    が、画像からはこれが限界でした
    どうにも歯抜けなのが残念

    https://twitter.com/mokunojou/status/1697202917089202600

  • #2

    今井一光 (木曜日, 31 8月 2023 20:34)

    ありがとうございます。
    たまげました。凄い!!
    光の加減と石碑のカビで判読を諦めるべき、またはあとからのんびり・・・の感ありました。
    解読文を拙メルアドにお送りいただければブログのがつお氏コーナーに追記させていただきます。
    今後ともよろしくお願いします。

  • #3

    がつお (金曜日, 01 9月 2023 05:12)

    載せていただくにはちょっと中途半端なので
    最近は「ひかり拓本」なるものもあるようです
    使い方が素人には難しいみたいですが、こういう碑文の解読が画像から容易になることがそう遠くない先に実現するかも・・・ですね

  • #4

    今井一光 (金曜日, 01 9月 2023 20:41)

    ありがとうございます。
    またどうぞよろしくお願いいたします。