百々町字東側 百々城址「どうど」は青木川 青と青

昨日午前は本年三度目の墓じまいに伴う法要がありました。

墓碑を撤去して御遺骨は拙寺境内の永代墓「一所一處」の墓に納めました。

数日前から遺骨の泥を落として天日で乾かしてキレイに仕上げて一晩如来様前に安置。

ご参集の縁者の皆さんには全員、そのズッシリ感を味わっていただきました。

これは、施主に「結構に重たい・・・」と両腕に抱えたそれを体感していただいたところ、他の方々も「我も我も~」という具合にその包みを抱きしめてくださったのでした。

四十九日法要の如く本堂尊前でお勤めができたこと、それができたことだけでも「良かった」と思う次第。

尚、今回の墓じまいの事情は御当家には息女二人。そのお二人とも他家に嫁いだためです。

夫にはそれぞれ、守るべきご先祖がありますから。

 

理由はともあれ、この国は信教の自由が保障されています。

信心・不信心自由。入信・退去それも自由。

父母の信心から離れること、とらわれない事まったく本人次第。その自由に入檀料、離檀料ほか諸所の件(地獄堕ちるなどの脅し・・・)宗教法人主催者からつべこべ言われる筋合いもナシ。

 

すべてが各人それぞれの意向が重視されます。

ということで私としても、そんな時は「どうぞ」、オンリー。

それしかないというところ。

寺はただ、皆さんそれぞれの意向の通り「おまかせする」だけ。

真宗はそもそも絶対他力、坊さんもトータル「如来におまかせ」ですから。

尤もいずれも私の思慮など及びもしないところです。

 

本山では「お檀家さん」などいう語は使われなくなったような。大抵は「お寺のご門徒さん~」で通していますね。

また通常は歴史的に見ても「門徒」といえば真宗門徒をイメージしますが、広い意味では真宗に限った「門」ではないことは当然の事。

その門はフルオープンでなくてはならないものです。

 

今は「出入り自由」の信心世界ですから、別の信心を得ている方も無信心の方も当流の門を潜ることがまたあるかも知れません。退去する方もあれば来られる方も。

それもご縁ということになりますが、その時もそれぞれ大切にしていきたいと思います。

 

先般、当流教区の一寺院の法人解散届が受理されたことを知りましたが人口の減少もありますが時代の流れというものですね。

残念なことですが致し方ない。

抗いは不可能、「縁」の中で生かされている・・・やはりおまかせするだけですね。

 

 

扨、昨日は岡崎百々の丘、七所神社を記しましたがその杜の東にもう一つの丘というか小さな森があります(画像 ① )。  

そちらが百々城址になります。

「百々町字東側」なる地名ですが、やはり七所神社あたりまでその城域が広がっていたと見るのが妥当なところでしょうか。

 

そもそも百々(どうど)の地名はその北側を矢作川に注ぐ青木川の流れを形容したもののよう。

ちなみにその川を渡った地が本多忠勝の出生の地西蔵前城となります。

まさに井田城の石標にありました通り、三河武士の中心地がこちら(岩津を中心に岡崎城にかけて)であったという主張、わかるような気がします。

 

内藤氏の出自説同様やはり近江→三河の途を辿ったといわれ、清康時代にこの地を安堵された青山氏が居城としました。

青木川の流れから取った「とうど」の地の青き山を拠点とした青山氏。「青」の字が重なります。

地元ではこの「青山氏」の青山が時代を経て、現在の国道246号、青山通り、青山の発祥となったことはあまりにも有名な話。

 

城址は丘の東側、住宅街に囲まれた森になります④⑤(場所はこちら)。

城址の管理者はS氏です。

いわゆる個人宅の裏山という感じで気軽に立ち入りすることはできません。

⑤⑥⑦⑧などの石塀は後世の手は入っているでしょうが、古い時代の結界のように感じます。

庭にもその手の遺構が想像できる、ちょっとした構造物を認める事ができます。

 

②は七所神社の裏ですが、この周辺地は「掘れば何か出てくる」埋蔵文化財包蔵地に指定されています。