岡崎伊賀町明願寺は本願寺派 掛川圓満寺と所縁

朝から、雨時々土砂降り。

快晴続きだった先頃、稲作農家の方から水不足と稲の生長が早すぎることに、困った~困った~の溜息を聞いていました。

しかしその数日後のこの雨続きには私も困った・・・。

通気の悪い本堂は湿気でサウナ化、そしてあの土砂降りでは墓参にも出られやしません。

昨日は奇特な事で、何故かその時だけピタッと雨はやみ、お日さままで。

そういった些細なことではありますが「仕合わせ」を感じました。

 

夜は「`玉砕`の島―サイパン島」を視聴。

まぁ何をとっても無茶苦茶な話ばかりで。日本兵が一般人の避難する洞窟に合流して統率し、母親たちから子供たちを奪って殺すシーンはかつて沖縄戦でもその件、聞いてはいましたが、酷いものでした。

「子供が泣けば飛行機に探知されるから」という理由も根拠レスですが、足を掴んで洞窟の岩に頭を叩きつけて殺していったという証言はリアルすぎ。

兵士は「一人より千人の命を」をまた一つのスローガンの如く子供を殺していったそうですが、証言者の言葉は「母親の気持ちは千人より我が子・・・」のはずと。それ当たり前です。

 

サイパンに移住した一般人の運命は殆ど同じような道を辿るわけですが、元居たチャモロ人等の現住されていた人々へも日本兵の乱暴狼藉の数々の証言がありました。

国が戦争を始めれば市民は巻き込まれることになります。

先日台湾に行って大風呂敷を広げたあのお勉強が足りなさそうな(未曾有-みぞうゆうさん)の軽口、まぁリップサービスなのでしょうが台湾有事に「日本もふるって参加する覚悟が必要」なる語を聞きました。私にはそんな覚悟は一切ありませんね。

子供たちにもそれは敬遠していただきたい。爺さんというもの勇ましいばかりで。私もそうなるのか?

 

歴史の責任というものに市民を巻き込まないでいただきたいのですが・・・戦争というものは政治外交の破綻であって政治屋の怠慢です。

そもそも今のあの中国という国の基礎・・・中国共産党の躍進は日本の大陸侵略をきっかけにしてその反発勢力として成長したのでしょうから。日本が育てたようなものかも。

北のミサイルマンのお国も同様でしょうね。

 

番組ではチャモロ語をしゃべっただけで日本兵に射殺されたという縁者の話が。

占領した日本学校の教師から「お前たちは三等国民 野蛮人だ」と罵られたというのも酷い。

ちなみ二等とはコリアンとのことですが、その言葉、久しぶりに耳にしました。

 

おもいだしました。

かつてダイハツの車のCMで「サイパンじゃあ 美人~」のフレーズがありましたね。

それには、違和感がありましたが笑っていられない衝撃から頭からそれは離れません。

戦後しばらく、いや最近までそういった差別的なことに面白く笑うという風潮がありましたね。

年配者の心にはその手の感覚があるのでしょう。

私は観光でサイパンを訪れたことがありましたが、そのチャモロの人の証言を聞いて、あの時、青空と青い海の下、大いにはしゃいだことが、迂闊であったこと、思いました。

 

さて、先日は岡崎市伊賀の伊賀八幡宮について記しましたが、そのスグ近くに本願寺派の明願寺があります。やはり地番は岡崎市伊賀町①。

庫裏には茶人山田宗徧の茶室があります。

 

ウィキから概略転載。

「淇篆庵-きろくあん」は、明暦元(1655)年に山田宗徧によって建てられた二帖茶室で、当初は豊川吉田城の城下町にあった。

当時の藩主小笠原忠知が掛川藩に移封になると、茶室は宗徧の次男山田久作により、掛川城の城下にある圓満寺に移された。

そして享保二十(1735)年久作の子山田茂右衛門が宗徧伝来の茶器とともに圓満寺住職の実兄である明願寺住職淇篆庵撲民(きろくあんぼくみん)に寄進し、現在地に移築された。」

 

尚、茶室は公開されていません。

本堂をお参りし境内散策のみ。

伊賀城の城域とも。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 10 8月 2023 15:57)

    全く政治家というのはどうしようもありませんね。
    解決策は、戦いの先頭は政治家の必須事項。
    まずこれを法律で決めましょう。
    後にいる政治家は言う資格なし。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 10 8月 2023 19:35)

    ありがとうございます。
    人を動かすものはパワーではなく「心」であることを肝に銘じて
    やるべきお仕事に向って欲しいものです。