昨日は「夏のテレビ小僧」。
というかテレビ爺の方が正しいかも。
昨日も拙ブログで振った通りNスぺ視聴のあとはETV特集、ミッドゥエー戦―3418人の命を悼む―「残された者たちの戦後」を視聴しました。再放送でしたね。
色々感じるところありましたが、海戦にて日本軍によって撃墜され漂流していた搭乗米兵3名を日本の駆逐艦が引き上げ尋問後に処刑したという件(艦長の支持があったといいます)について特にショッキングでした。
処刑のこともそうですがその戦いで日米双方の全戦没者を特定するという作業をする澤地久枝氏が、その処刑された方の家族のもとに面談を求め赴いたといいます。処刑された方の妹さんは目を合わすことなく終始無言で「明らかに怒っていた」と。
捕虜としての待遇がなされるでもなく処刑という理不尽な結末、海に投げ捨てられた遺体、そして「残された者」たちの二つの感情が思い浮かびます。
当然に日本の軍人たちの非業の死と家族縁者の虚しさについてもレポートされていますが、やはりそれらの事々について知らぬ振りをし、また知らなかったで済ませることは死者たちと残された者たちへの非礼を感じます。
率先してそういった戦争というものがいかに悲惨で人々に多くの悲劇と別れをもたらす不合理なものかを知るべきだと思った次第。
それだけは「歴史は繰り返す」の達観は無意味。
扨、昨日の花岳寺。
その境内には霊源寺・広国寺という花岳寺の塔頭寺院の跡があってそちらに松井忠次菩提寺の旧法応寺の墓が移されています。
廃寺になって、寺地の土砂が業者の手て掘削搬出されるその前に市の発掘調査と花岳寺への墓塔移転作業が行われています。
その忠次墓石の下から出てきたのが先日記した蔵骨甕だったわけですね。
先日、記した以下岩瀬文庫の記述を再掲。
「(旧法応寺の寺伝では)日近合戦で討死した松平右京亮義春の菩提寺として創建されたと伝えられるが、日近合戦で亡くなったのは忠茂が正しい。
法応寺には忠茂の跡を継ぎ天正九(1583)年に没した松井忠次も遺言により埋葬されたという。
享保十七(1732)年に忠次の没後150回忌の法事が行われたのを機に墓塔が建立され、延享二(1745)年には顕彰碑が建てられた。
明治二十五年には東条松平家忠らの墓碑が建立された。」
とある墓塔と顕彰碑がそのままこの花岳寺の境内地に移されているワケです。
そのままと言ってももっと墓石同士の間隔はもう少しばかりあって大部コンパクトに置かれているかと。
③④中央に松井忠次の墓。⑥⑦⑧向かって右側に東条松平氏、
⑨⑩⑪左側が松平康親(松井忠次)顕彰碑になります。
⑫は西尾市埋蔵文化財発掘調査報告書21集 旧法応寺墓所から
東条城との位置関係の復習。
松井忠次の墓には彼の法名「空閑院殿厳誉豊月崇輝大居士」没年「天正十一癸未 六月十七日」。石灯篭一対は岡田求馬英元なる人の寄進だと言われています(寺伝)。
東条松平氏の墓には五輪塔が3つ。
明治二十五年に松井康義なる人が整備しているようですが、碑には右側に松平右京亮義春、左手に松平甚太郎家忠とあります。
ただし上記の通り寺伝の錯誤の指摘。
弘治二(1556)年の日近合戦で亡くなったのは忠茂ということからこちらの埋葬は義春ではなく忠茂だといいます。
一番左側の五輪塔には「本光院」の銘かあり忠茂室(忠次妹)の墓とのこと。
松平康親(松井忠次)顕彰碑は1700年代(延享二)に建碑されたもので松平康親(松井忠次)の転戦武勇が記されています。
松平康親が公式な名となりますので・・・
コメントをお書きください