テレビ報道を見ていて「何それ・・・」と思ったこと。
コンビニ店舗の映像でしたが昨日から①レジ前の防御板(シート)を撤去②設置されていたアルコールと体温計を撤去③店員のマスクを外した、の姿でした。
「お客さんどんどん来てね」のコメントもありましたが。
その感覚についてその方向性についても受け取り方も自由ですが、私から見たそのイメージは少々不快を感じました。
客の自由はいいのですが店側としては慎重が肝要とその警戒を維持すべきと思った次第。
奥方と「そんな店 いかねぇよ~」の異口同音。
感染が終わったわけでもなくウィルスはまだ存在し現実に感染している方がいます。
そしてそれらのおかげでインフルエンザが激減したというメリットがありました。
店員のマスクとアルコールの設置は「食べ物を扱う店」として継続すべき「新たな配慮」と思った次第。
私は人の前で話すことが多い仕事ですから当分の間はマスクの装着は続けます。
マスクなしでぺらぺらおしゃべりする様子はまだまだ受け入れは不可でしょう。人を不快にさせること必定。
気が小さいもので・・・
扨、昨日記しましたよう秦梨には城が二つ。
しかしあの看板⑥の概略図も③の説明の文言も私は疑問が残ります。
⑥の如く記述では恰も本城(詰の城)と屋敷(根古屋)の如くの関係に感じます。
掲示板文言「秦梨城山城(字林中)は小さいながら」の記述はまた大いに疑問。
私が以前こちらを彷徨ったことがありますが、結構に広いを感じたものでした。
案内板も、また指定された登攀路もなく私がやみくもに取りついたせいもありましたがかなりヘロヘロになりましたからね。
「奥の墓道」氏を案内したのはこの字神谷の方、地元の皆さんの誰もが知っているカンタンな方の城になります。
要は看板にその根古屋を思わせる記述がある方です。
ただし、私が今回で今年3回目のマダニ咬傷を被った最有力地でした。
場所は明治二十七年に秦梨に来て医療施設を開き地域医療に貢献したという荒川同楽(鼎)という人の句碑が建つ場所があります(こちら)①~④。そちらから。
右端にある石標が城址への案内碑。⑤から200mもない左側⑥⑦を左に折れてスグ。
左手に⑧の土塁、奥に掲示板(昨日)、右手に⑩が迎えてくれます。⑨が屋敷址との主張ですが鉄塔と猪捕獲用ケージが無粋。
看板の更に奥に⑪の城址碑と供養塔があります。
供養塔はこちらで戦闘が起こっていた証ですね。
疑問に思うのは位置関係。城址の西の湾曲して迫る乙川を堀に見立てて現在の県道岡崎設楽線辺りまで張り出した尾根の先端を想像できますがその先端部分は道路の開削によって消失しています。
どちらにしろこの尾根先端から南側からあたりが追手(北側は崖)と思われるところですが⑩、⑫⑬の堀切の位置が不自然なのです。
掲示板等が発する城址の様相は尾根背後を切断して先端屋敷址部分の守りとしているような主旨のようでしたが、その尾根を更に上ったところが⑭~。
⑮⑯など堀底追手を思わす道の左右の石ゴロゴロの様を見て「門の跡じゃね?・・・」と彼と盛り上がったところ。
また大きく削平された段が2つほどあり「コレ井戸跡じゃね?」などいう凹部も。
こういった歴とした山城を推測ができる地形が控えているのに尾根の先端部分のみを評価するのはちょっとね。
⑳は堀切上段の先端削平地ですが、こういった場所はしばしば物見櫓が建っていたものです。
奥もしっかり広い。
堀切はその後方に主郭があったとすれば頷けます。
以上私どもが想像を巡らした「城ブラ」でした。
ちなみに⑭の木の皮が剝がされた図を見て彼はニヤニヤ。
私は先般も記しましたようコレはただの「森の中」のこと。
驚きませんね。しかしどなた様の爪とぎ?
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