震度6強の能登半島珠洲市に豪雨というのはいかにも気の毒でなりません。
家屋の屋根瓦が崩れた直後に前線通過を迎えるというのはあまりにも酷なことです。
かつて駿河湾沖地震の際、私どもの場合は本堂の大棟瓦の崩壊という事態を被りましたが、少々の降雨はあったものの本格的な雨には至らず、私が屋根に上がって養生する時間はタップリありました。
おかげさまでその材は腐食から免れることができ、最悪の状況にまでは至りませんでした。
古い木材に大量の水分が浸透すれば一気に劣化が進むといわれますので早い対応は必至です。
おそらく地震後に店頭からブルーシート等の欠品が発生していることが想像できますが、そのあたり行政の方ではどのように対応しているのでしょうね。
個人レベルでの対応となることは大体推測できますが。
私の場合は大小含めて7~8枚のそれをキープしています。
家屋が全壊したとしてもある程度の養生対応ができれば「材」だけは守ることができます。
もっとも私の場合は本堂用の特殊な材木の再利用を考えての対策ですが。
扨、先般の奥の墓道氏来訪につきハカ・テラ・シロを一緒にブラついたのでしたがあの八面石塔のあと向かったのは秦梨城。
岡崎市の地にある山城✖2です。
山の下には第2東名のトンネルのある広大な山城とそれよりコンパクトな城と二つ並ぶ(地図)ようにありますがどちらかといえばマイナーな城ですね。
先日は歴史好きという若者と話をする機会がありました。
三河と遠江の間を普段往来しているということで「城」について振ってみると岡崎城や浜松城の名が。
私の持論、城とは天守がそびえるだけのものではなく、特に三河には無数の城があるから探索は殊に面白い・・・等々話が展開したわけですがその無数有る城の一つです。
いつもの城郭大系から。
秦梨城 岡崎市秦梨町 粟生長蔵在城
現在畑地だが城屋敷の地名が残る
秦梨城 岡崎市秦梨町 粟生永信築城
のちに酒井図書が在城した
地味ながらこの城は弘治二年(1556)の日近合戦~秦梨の合戦~という三河忩劇なる騒乱の中で実際に戦場となった城でもありその存在は知る人ぞ知る・・・の類。
地元の方たち(2名)をつかまえてインタビュー。
④居館といわれる城址については「知っている」とのことでしたが山城の方は「知らない」の一点張り。
山城と思われる山の真下でお聞きしましたが、生まれてこの方ここにいるがその件「聞いた事がない!!」とまで。
しかし④の地にあった掲示板にはしっかりと記されていました。
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