相見川 熊谷橋近く高力城の碑 幸田高力熊谷

予報から多少の風雨は覚悟していましたが当地のそれは微々たるもので一安心。

世間大騒ぎの「黄砂が来る」の件も今のところ大したことなしというか何でもなし。当地に限ってか、本格的なそれはこれからなのかも知れませんが、とにかく無事。

ここで「無事」の字面を記しているとつくづくその有難さを思います。何事もです。それ以上の望みはありませんね・・・(とウソでもそれを言ってみたかった)。

自然現象であれば、昨日同様ただただ「承る」他はないのです。

 

先般の「花まつり」法要で相良仏教会の寺院住職が勢ぞろいしたのでしたが私も導入を検討しているその件、「始めた」という方が二人いらっしゃいました。

それが年明けに年末の電気代の領収書を見て思い立ったとのことでした。驚愕の数字で唖然呆然立ちすくんだといいます。

 

そしてその「導入」とは薪ストーブ。

寺には樹木ほか燃料にになりそうなものはいくらでもありますから。

外で何かを燃やせば通報されることは必至。しかし薪ストーブは「煙が出ない」ので暖房と一石二鳥だといいます。

問題は設置工事と防火の問題。

既存の壁を防火壁にしたり煙突の長さとその保持のノウハウも。まぁこれから勉強が必要です。

残り火があれば気になって「眠れない」ことにもなりそうで、今一つ踏ん切りがつかない理由でした。

 

扨、昨日まで記してきた幸田の高力熊谷の神明宮から山泉寺を中心にして南に流れる相見川辺りまでをその城館の境界としていたかと考えられます。

尚、その河川名も幸田の元の名となった広田川と同様、地元では耳に馴染んだ名でその地名としても残りますし駅名にもなっているほどです。

 

その河川には岡崎中心地から幸田深溝を結ぶ街道、県道岡崎幸田線(483号)の橋が架かっていますがそれが熊谷橋(⑧画像)。

高力城域はその街道を挟んであったと考えるのがスジでしょう。

橋を渡って川越しに振り返った図が①で常夜灯、覆堂、そして高力城の石碑が見えます(場所はこちら)。

平城というか平地の領主城館は河川を巧みに利用することが必須。今の川は改修を重ねて当時とは様相を異にしていることでしょうが当時はもっと河川が細かく分岐し、泥湿地帯が広がっていたという感じ。

常に河川の氾濫を念頭にそのリスクと田の収穫の恩恵、時に防御性と共存していたというのが当時の平地の城塞。

 

城郭大系の記述。

「高力城 額田郡幸田町大字高力

『仏高力』といわれた岡崎三奉行の高力興左衛門清長の居城。天正十八年武蔵岩槻二万石に移封」。