朝方の強烈な土砂降りには驚かされましたが昼前には、何とか法要の締めの墓参は傘が不要となるまでに至りました。
ただし降雨直後の本堂裏の墓域には通路上に水たまりができていてあらためて拙寺の排水の悪さを思い知らされました。
その箇所に砂を入れるという策もあります。ただしその堆積によってその奥側の通路に水が溜まりますからね。
検討課題がまた一つ。
さて、スマホアプリというと利便性あるものからゲームもの、駄ものまで多種多様にわたりますが、私が今一番に期待しているのが表記アプリ「ひかり拓本」です。
奈良の文化財活用センターのHPを見廻していただければなるほどと合点いただけると思いますが、要は「墨ではなく光で、紙ではなくカメラとパソコンで」がウリの新技術。
石碑を見つけてからそれを読むために角度をあっちこっち変えながら眺めてあるいはカメラのシャッターを押すという経験がある(たとえば木戸観音堂の梶勝忠由縁の碑など)わけですが、それでも判読不可のカットが出てくるものです。
現場ではスマホを固定して置きライトを角度を変えて当てて各シャッターを押し、アプリで解像させるというもの。7カットほど撮影すればイイとのことでした。
懐中電灯程度の照明でOKならばお手軽です。
アプリが本当に(近日中といいます)無料配布、ダウンロードができるのならば(半信半疑・・・)一度は「使ってみたい」ものです。
扨、昨日記した林松寺に隣接して室神明社があります。
その林松寺は牟呂城址ということ。その住所地「室町上屋敷」たる由縁でしょう。
「この城は永正年間、東条吉良氏の被官であった富永五郎修理大夫(正安)によって構えられ富永氏代々の居城」(城郭大系)。
天文五年(1536)のことといいますから松平廣忠が10歳の頃。
この城に匿われて短期間ながら生活していたようです。
大系の記述を写せば「天文四年の清康急死後、岡崎城が松平信定の占拠するところとなり、清康の嫡子廣忠は幼年のため、今川氏の助力を得てさらに東条氏や富永忠安の妻が安祥の松平長親の女という関係から、この頃の松平氏に等しく加勢していたのであろう。」
グーグルマップの航空俯瞰図⑤を見ると城域は楕円形の如くの丘であることがわかります。
よって神明社の山がその牟呂城の別郭であることが推測できます。
⑥は浅野文庫古図。
④の葵の御紋の件は端折りすぎか。
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