永井村 山本小次郎 勘助登場は私も無理くり

引き続き風が強く寒い日でした。

こういう日はまともに外仕事をやろうなどという気にはなれませんね。あと数日もすれば「温かくなる」と天気予報では繰り返していますので・・・

 

私の頭の中は昨日の山本勘助の件ばかり。

「奥の墓道」氏に鰻重5杯をまんまと献上することになったとしたら幾らの損失になるのだろうか・・・は勿論の事、ちょっとばかり大風呂敷を広げすぎたか・・・の不安です。

やはり勘助は永禄四年に川中島で亡くなっているところ、永禄六年に三河に登場するなど、いくら何でも視聴者に大暴れされることになるでしょうからね。

もっともその手の暴走に「暴れる」までもなく、呆れて離脱されている方は結構いらっしゃるかと。

 

ということで「お話」として挿入されるとすればその弟や甥っ子ということになるのでは・・・と。

よって「奥の墓道」氏には本人でなくても縁者でよろしいね・・・と念押し確認すると「その件 OK」と。

要は「山本勘助の名は出てこない」との判断ですね。

私はそれなら「イケる」と日曜日が楽しみにになったのでした。

 

私がその名に何故にして拘るかと言えば・・・演出家は正攻法の文献はある程度目を通しているのです。

その通説を引っ繰り返してでも世の中の人々がよく知っている人間を登場させる・・・その傾向があります。

忍びといえばハットリくん・・・よって甲賀忍者が通説のところを服部半蔵を無理くり登場させるなど上之郷城の件でよくわかりました。

 

家康より2歳年下の十九歳本證寺空誓が家康岡崎と渡り合うに(劇中では断トツに空誓が上に見えました)そのバックで戦術面をフォローする者が登場するようですがざっと先日記した門徒側に付いた武士たちの勝鬘寺と上宮寺のメンバー表(三河後風土記 正説大全)を引っ張ってみます。

 

「針崎正満寺(勝鬘寺)

 

蜂屋半之允 久世三四郎 久世平四郎 浪切孫七郎 

近藤新三郎 筧助太夫 本多喜蔵 畔柳孫左衛門 畔柳金十郎

川澄文助 浅井善次郎 浅井小吉 浅井五郎作 土屋長吉

渡辺玄蕃 渡辺半蔵 渡辺八衛門 渡辺八郎五郎 

渡辺八郎三郎 渡辺源蔵 渡辺住右衛門 渡辺平三郎 

渡辺源五左衛門 渡辺半三郎 小林平次郎 小林平六 

浅岡新十郎 浅岡新八郎 安藤治右衛門 加藤善助 

加藤次郎左衛門 加藤源次郎 加藤伝次郎 加藤源蔵 

加藤又三郎 加藤源太 佐野小太夫 成瀬新兵衛 坂部又六 坂部庄兵衛 坂部囚獄之助(ひとやのすけ) 坂部桐之助 

坂部造酒之助 坂部又兵衛 平岩善十郎 渡辺左門

其外八十余人

 

上宮寺

大橋伝十郎 大橋佐馬介 石川半三郎 石川源左衛門

石川善五右衛門 石川新九郎 石川右衛門八 石川新七郎

石川文十郎 石川十郎左衛門 石川太郎八 佐橋甚兵衛

佐橋甚五郎 佐橋久米之助 大見彦六 佐橋辰之助 

江原孫七郎 江原文助 本多甚次郎 本多甚四郎 

本多九郎三郎 本多八太郎 佐野与八郎 内藤弥十郎

山本才蔵 山本小次郎 山本四平 松原半助 小野弥平治

村居(井)源四郎 畔柳治郎兵衛 畔柳彦助 成瀬新蔵 

岩成半七郎 三浦平三郎 浅見主水介 浅見金七郎 

加藤五郎左衛門 平井甚五郎 馬場小平太 松平源四郎

野沢四郎次郎 吉田与左衛門 

其外七十余人

 

 

 

ざっと見廻してどちらも三河でよく見る名。またその家系一統を思います。

ちなみに勝鬘寺の蜂屋に本多御一統そして渡辺党、加藤党などもそうでした。また土屋長吉のドラマへの登場があったのはびっくりでしたね。

そしてこれを見廻して「勘助の名が出てくるかも・・・」と鰻重バクチを提案したというわけです。

私の予想の元は山本才蔵 山本小次郎 山本四平」の山本党

でした。

 

三河の野原をぶらつく機会の多い方なら知る人ぞ知るその名「山本」ですが(比較的その苗字は少なくないような・・・これは墓地を歩いていて・・・)、三河二葉松に「永井村 山本小次郎」とあって城郭大系には「永井城 山本氏在城 現在は田畑となっている」とあります。

 

そして一向一揆の主戦場となった針崎勝鬘寺や土呂本宗寺の南、

幸田の野場西城(こちらも)に至る手前になりますがそちらに永井城の石碑があって道路を挟んでなんと山本勘助の墓があるのでした。

野場西城から旧菱池の淵を岡崎方面に辿る際、その道端の両脇で石標と墓標は主張するように輝いていますのでまさに知る人ぞ知るその名です(場所はこちら)。

 

ということで軍略に長ける武士をこのメンバー表から「みんなが知っている」その人をあげるとすると山本勘助が出てきたということです。

しかしあまりにもそれはヤリすぎの感じが漂ってきますので私も一日たって鰻の代金が心配になったのでした。

 

まぁその時はいずれかの時の彼の横浜撤収(引っ越し)の手伝いでもして許してもらいましょうか。

負けたとしても「そんなワケないだろう シャレだよ」で振り切ろうかと笑って誤魔化そうとは思っていましたが今はかなり自信がなくなっています。

昨晩は調子にのりすぎましたね。

 

屋敷は70m✖70mの方形敷地だったといいますが、私有地に付き未調査なのでしょう。

広田川と占部川・砂川に囲まれた平坦な土地。

当時は周囲は泥濘だったのでしょう。

水害困難もあったでしょうね。

かつての土塁などがあったとしても開削埋め立てに使用されたのかも。そもそも「掻あげ」でしょうから土塁を堀に戻せば即平地に戻ります。

 

墓石はベース改修済み。上部はあきらかにMIXです。

しかし設楽原にもありましたが「勘助の墓」(供養塔)は色々なところにありますからね。

存在自体も疑わしい・・・くらいですからどう演出してもかまわない・・・そんな人ですね。