< 縦15.7cm 横514.5cm> 下図は新編安城史 Ⅰ から
三河一向一揆についてはいわゆる敗者ということでその経緯についての寺院側の史料はそうは残っていません。
敗者と言っても和議休戦に至ったあとからの家康の和議の反故によるドサクサの中、真宗寺院の打ちこわしと禁教に至ったわけですから戦闘で負けたのではなく策略と宗旨的厭戦気分の蔓延によるものが大きかったと思いますが、家康のしたたかさを思うばかりです。
流れの中で「えいやぁ」とばかりに「やっちゃった者勝ち」の感。大坂の陣<冬>の後の堀の埋め立ての経緯もそのように思ったわけで。
先日は「がつお氏」から「大河ドラマの視聴ヤメタ」のコメントをいただきました。
それはやはりNHK受信者の低年齢層ゲットの思惑でしょう。
将来への布石があるからでしょうがそれによって「子供だまし」的演出の態の如く時に笑うところを設けるなど「わかりやく」「面白おかしく」仕上げようとする姿勢が浮き出ているのでしょうね。
その演出姿勢をもってドラマ作りを進めればこれまでの歴史ファンを「切る」ということにも繋がりますから、NHKの処断方向性、決定路線とはいえかなりの冒険です。
そしてまた、あれだけ鳴り物入りの前振り宣伝工作だったにもかかわらずの視聴率の低迷は頷けます。
がつお氏の如く「許容しかねる」方もこれから出てくるでしょうね。一言「バカバカしい・・・」とばかりに。
永禄六年に入って「家康」と改名してからのイキナリの難題が三河一向一揆でした。
この描き方はそのドラマには難題です。家康でなくドラマ脚本家に「どうする」ですね。
そもそものその発端説のうち上宮寺発端説について先日(百倍返し)記しましたが勝鬘寺文書には本證寺寺内の渡の鳥居の本拠地に家康家中の者が米穀を踏み荒らしたことによる諍いから本證寺が発端(三河物語)と主張するものもあります。
どちらが真実か、それら以外か今はまだ釈然としないところですがとにかく世にいうその「一揆」(本来の意「揆を一にする」)は江戸期の百姓一揆の如くのものとはまったく違うものです。
武士団に寺内町、商工業者が寧ろ中心でしたからね。
天文十八年(1549)四月七日に記された本證寺連判状といわれる書があります。
三河一向一揆の永禄六年(1563)との時間的ギャップはさほどなし。14年です。
これが本證寺の有力武士門徒115名が、本證寺八代源正(もとまさ)の遺言(本願寺と「あい松」を後継者とする本證寺を守護し
てほしい)に対して忠誠を誓った署名書です。
面白いのは当時の三河の領主(松平・今川・吉良・水野・・)たちの配下の武士たちが混在していること。
彼らそれぞれの殿たちの意向とは関係がない宗教的結束であるということがわかります。
その地域は三河西部(碧海郡南部から幡豆郡西部)と広範囲にな
ります。
こういった寺の教えを中心とした結合関係は当時真宗門徒にかかわらず全国各地にあったことでしょうが「史料として残るものは全国的にみても全く例がない」(安城市博物館)ものでしょうね。
筆頭に署名するは石川(石河)忠成(清兼)。
石川数正の祖父にあたり妙春尼(水野忠政の娘、於大の方の姉)が奥さん。家康の乳母ともいわれてごく近い近親者。
その妙春尼のおかげで三河に真宗が再興できたのですが。
そして安城小川の蓮生寺の石川氏や木戸長因寺の石川氏の面々。周辺各地に一統家系は当時から周辺に散らばっていたこともわかります。
当岡崎教区真宗大谷派の寺院名簿から見る三大苗字のうち石川と本多が目立ちますね。
特に石川(河)はこの連署に33人も。
大河ドラマでは鳥居・中根・榊原の名が現状ありますがそれらの名はこちらにも登場しています。
これらの面々が一揆に参加した武士のすべてとは言えませんし、またこちらに明記されていない武士もいたはずでしょう。
とにかく家康の家臣団が「宗旨か殿か」の選択を強いられて分裂しあるいはそのドサクサを好機と参加合体した反家康勢力が家康と戦ったというのが三河一向一揆の構図。
ドラマの描き方が見ものです。
家臣団の有力どころが離脱して殿に弓を引くという事態とは・・・浄土真宗を少しばかりの理解、まともな考証ナシのチャラい描き方でしたら私も離脱(しようかな・・・)。
それでは署名に列した115名を。地名は上記地図参照のこと。
001 石河右近将監・・・忠成(清兼)
002 小河 石河四郎三郎信成
003 渡 鳥居弥平次信茂
004 小河 石河助三郎安成
005 小河 石河助次郎久信
006 岡崎 石河伴三郎勝宗
007 岡崎 石河与十郎忠次
008 岡崎 石河与八郎広成
009 岡崎 石河助十郎忠次
010 木戸 石河伝大郎元成
011 木戸 石河三郎四郎長成
012 小河 石河清三郎久成
013 岡崎 松崎宗三正次
014 岡崎 浅井甚平信吉
015 岡崎 阿部孫大夫政次
016 岡崎 石河孫助吉成
017 和泉 都築又兵衛尉勝重
018 木戸 石河平四郎康忠
019 渡 鳥居源七郎入道忠資
020 岡崎 羽根田新左衛門張繁
021 岡崎 大岡宗六郎久次
022 岡崎 内藤橘兵衛信成
023 岡崎 榊原与三左衛門広重
024 岡崎 波倉八郎左衛門家次
025 木戸 石川式部丞信実
026 安城 酒井小四郎信家
027 野寺 本多伴七郎信光
028 野寺 石川甚六家重
029 安城 本多一郎兵衛尉□□
030 熊村 三浦源左衛門尉家長
031 刈谷 小島弥六安忠
032 高棚 神谷九郎左衛門尉家忠
033 高棚 神谷三郎右衛門尉忠直
034 高棚 神谷与助家定
035 高棚 神谷孫右衛門尉家次
036 高棚 神谷次郎左衛門尉直次
037 高棚 神谷宗三郎吉忠
038 高棚 石河善六久次
039 吉浜 神谷六郎左衛門尉直政
040 吉浜 神谷与八郎直清
041 小河 石川与右衛門尉信光
042 小島 伊奈六郎四郎安元
043 小島 伊奈又一郎安家
044 小島 河村弥左衛門尉安政
045 中島 大嶽彦一郎安次
046 小島 河村藤左衛門尉安忠
047 小島 三浦藤十郎信家
048 小島 河村弥七郎忠元
049 小島 市石彦左衛門尉吉定
050 小島 市石彦七安長
051 小島 市石彦助安久
052 小島 間瀬木弥六郎信長
053 中島 越山平三郎家次
054 須美 浅井弥右衛門尉信忠
055 山中 杉浦宗三清正
056 浅井 石川拾郎左衛門尉忠重
057 渡 鳥居次郎右衛門尉親家
058 渡 鳥居橘次郎信家
059 一色 鈴木弥右衛門尉貞重
060 平口 鈴木又八重世
061 平口 鈴木新三重忠
062 味浜 船越伝右衛門尉政秀
063 味浜 船越小右衛門尉親常
064 市子 榊原主計助久重
065 市子 榊原宗八郎正信
066 八面 和田右京亮家久
067 八面 石河拾郎左衛門尉重広
068 八面 石河甚十郎家次
069 八面 石河宗左衛門尉久末
070 八面 石河宗七郎重国
071 八面 和田源十郎家定
072 八面 和田与五郎重久
073 八面 成田新一郎久正
074 しこや志龍谷 牧甚一郎正次
075 しこや志龍谷 牧甚四郎吉次
076 八面 石河甚助正秀
077 山崎 石川道金正家
078 山崎 石河与四郎家次
079 高落 石河清助信直
080 寄住 朝岡孫一郎直清
081 寄住 本多新左衛門尉秀家
082 寄住 本多新一郎秀貞
083 寄住 阿知波宗佐左衛門尉定親
084 寄住 平賀将監勝家
085 寄住 阿知波宗四郎定家
086 今川 石河甚八郎利久
087 菱池 石河源一郎
088 深池 小野田右衛門尉
089 菱池 石河与次家秀
090 山崎 伊奈橘三郎安次
091 榎津(米津?) 石河弥七郎忠教
092 岡崎 浅井八郎左衛門尉久次
093 木戸 石川伴七郎家次
094 福地 石川藤六郎信久
095 小河 都築平六家重
096 福地 小野彦三則久
097 福地 小野四郎左衛門尉則忠
098 小河 神谷一右衛門尉利直
099 小河 石河与左衛門尉家秀
100 小河 篤蔵人
101 小河 安原平十郎正秀
102 小河 矢田源次守定
103 味崎 中根善次郎範久
104 味崎 牧主計助
105 味崎 中根善三郎範定
106 味崎 中根善七郎範重
107 味崎 牧弥四郎吉重
108 味崎 牧与七郎
109 味崎 井上藤四郎光家
110 味崎 牧弥八郎重久
111 町 林八郎左衛門尉素勝(カ)
112 町 林与三太郎吉次
113 町 林与三左衛門尉吉次
114 町 林兵衛次郎吉重
115 町 杉崎弥十郎道家
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